かぶとむし日記

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金子文子「地上は今や権力という悪魔に独占され、蹂躙されているのであります。」(『女たちのテロル』)

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映画のなかの金子文子と朴烈(映画『金子文子と朴烈』のワンシーン)



金子文子曰く。

かくして自然の存在たるすべての人間の享受すべき地上の本来の生活は、よく権力へ奉仕する使命を完うし得るものに対してのみ許されているのでありますから、地上は今や権力という悪魔に独占され、蹂躙(じゅうりん)されているのであります。


そうして地上の平等なる人間の生活を蹂躙している権力という悪魔の代表者は、天皇であり皇太子であります。




(第十二回被告人訊問調査)


著者、ブレイディみかこ氏は引用のあとこう補足しています。

平等を語るとき、人は「マイノリティ差別はいけません」とか、「貧しい人々を救いましょう」とか言って、人の下に人がいる状態は正しくないのだと説く。それなのにいつまでたっても人の下に人がいる。なぜだろう。


それは人の上にひとがいるからだ。


生まれながらに蔑(さげす)まれるべき人が存在しないのなら、生まれながらに敬われるべき人だって存在するわけがない。


それなのに、「生まれながらに高貴な人」をデッチあげて社会を統治しようとするから、それとまったく同じ論理で、民衆を支配するために「生まれながらに蔑まれるべき人」が設定され、スケープゴートに使われ続ける。天皇のいる社会は、差別で統治する社会だ。これはシンプルなファクトである。


蔑まれ、いじめられ、無籍者、アンダークラス民として虐げられてきた文子だからこそ、その構造がクリアに見える。「それはそれ、これはこれ」と誤魔化されて維持されている不平等の元凶がどこにいるのかが見える。




(『女たちのテロル』)


女たちのテロル

女たちのテロル



被差別部落の問題を描いた大河小説『橋のない川』の作者・住井すゑさんは、インタビューでいう。

天皇制があるから、被差別部落がある。人の上にひとを作ることと、人の下にひとを作ることの構造はひとつ。




(『わが生涯ーー生きて愛して闘って』)


住井すゑさんも金子文子も、差別の根っこに天皇制を見据えている。



金子文子と朴烈(パクヨル)は、はっきりした証拠のないまま大逆罪の罪でとらえられ、死刑の判決を受ける。


しかし、まもなく天皇により、死刑から無期懲役減刑、恩赦がくだされる。


金子文子と朴烈がそれを受諾すれば、減刑のかわりに、慈悲深い天皇の「恩赦ストーリー」が完結する。


再び、『女たちのテロル』から。

朴と文子の転向があってこそ、完璧な恩赦ストーリーは完成する。


ふざけるな、と文子が思ったのは当然だろう。市ヶ谷刑務所長から恩赦の減刑状を渡されたとき、文子はそれをビリビリ破り捨てた。


他方、朴烈は恩赦状を受け取った。いったんは拒否したが、刑務所長が困っているのを見て「君のために、その恩赦状を預かってやろう」と言って受け取ったという。




(『女たちのテロル』)


恩赦の書状を金子文子が破り捨てた、ということが世間に知られたら、慈悲深い天皇の「恩赦ストーリー」は成立せず、天皇や政権の面目が立たない。


刑務所長は、ふたりとも感謝して恩赦状を受け取った、金子文子の目には涙が光っていた、という嘘をデッチあげて、「恩赦ストーリー」を完成させようとした。


恩赦による減刑を受けたあと、朴烈は市ヶ谷刑務所から千葉刑務所に移送され、金子文子は、宇都宮刑務所栃木支所に移される。

朴とともにギロチンに放り上げてくれ、という文子の一世一代の啖呵があっけなく無効にされたのである。まったく人の命というものは、権力者たちの玩具なのだ。




(『女たちのテロル』)


朴と引き離れた金子文子は、その後「自殺」したと報じられる。しかし、遺書はなく、「自殺」を疑う説もある。


23歳の若さ、壮絶な人生だった。