かぶとむし日記

映画、音楽、本の感想を中心に日記を更新しています。

大山澄太「俳人山頭火の生涯」を読む〜その1

俳人山頭火の生涯

山頭火について

これは、自分のための「種田山頭火」のメモです。これから、何冊か山頭火の本を読んでみようとおもっていますが、その読書メモをブログに残しておきます。自分自身の便宜や都合ですみません。1度では、もちろん彼のことをメモしきれませんので、何回かに断続的ですが、分けてアップします。


まずは種田山頭火の生涯を「早稲田と文学」のサイトから引用させていただきます。

種田山頭火(たねだ・さんとうか)
1882〜1940。山口県防府生れ。東京専門学校高等予科を経て、早大文学科を中退した。荻原井泉水に師事して自由律俳句【注1】*1に親しみ、「層雲」に投句。一家離散、自殺未遂など不幸が重なり出家得度、「解くすべもない惑ひ」を抱き行乞流転の旅に出て各地を漂泊、独特の作品を残した。一代句集『草木塔』がある。近年研究書が多く出され、声価が高い。


まだご存知ない方に、簡単に説明いたしますと、種田山頭火は、放浪する禅僧であり、俳人でした。墨染めの僧侶の姿で、日本中を行乞(ぎょうこつ)【注2】*2しながら歩き、それを俳句に残しました。


所持金ゼロ、もの乞いしながらの、木賃宿や野宿中心の厳しい旅でしたが、彼の句は孤独の厳しさを詠いながらも、ふしぎな明るさ、かわいらしさがあったりもします。


■大山澄太「俳人山頭火の生涯」〜自殺未遂からはじめての行乞の旅へ


山頭火とは、深い交流のあった大山澄太氏の山頭火の伝記ですけど、同時に彼の句のよき解説書にもなっています。ぼくは、この「俳人山頭火の生涯」を読んで、山頭火の句への共感がずっと強くなったような気がしています。


ここでは、山頭火の句と、大山澄太氏が句に寄せた文を書き記してみます。


山頭火は、大正13年自殺未遂をしました。熊本の市電の前に、仁王立ちに立ちふさがったのです。幸いに、市電は彼の寸前で急停止し、命をおとさずにすみました。彼は、この事件を契機に出家し、味取(みとり)観音堂の堂守となりました。以下の引用は、まだ行乞の旅に出る前の、山頭火の俳句です。

○松はみな枝垂れて南無観世音
○松風に明け暮れの鐘撞いて
○ひさしぶりに掃く垣根の花が咲いている

文学と酒に溺れて、迷いに迷い、悩みに悩み抜いた山頭火が、死線を超えて出家し、生まれてはじめての静かな山の堂守として、淋しいと言えば淋しい、有難いと言えば有難い、まったく変わった生活に入っていったのである。彼は夢のような44年の歩んで来た過去の道程を振り返ってみた。そしてそこに、変わり果てた姿の孤独な自分を見出すのであった。酒に酒を重ねていた彼が掌を合わせて南無観世音と称える彼となっているのである。1人住んで、その1人を慎み、小さいけれど軒に吊るされた鐘を、明け暮れに撞いてつつましく仏に仕える身となったのである。(大山澄太「山頭火の生涯」より)


しかし、山頭火の堂守としての平和な日々は続きません。彼は、村のひとびとに愛されながら、自分のような生臭坊主が、善意のお布施をいただいて安穏と暮らしていることにやりきれなくなります。


大正15年、山頭火は、はじめての長い長い行乞の旅にでました。
この時、山頭火は、九州・四国地方を行乞しながら歩いたようです。これが、彼の果てしない孤独な旅のはじまりでした。


次回は、山頭火の行乞の旅から生まれた俳句を記録いたします。

*1:自由律俳句:5・7・5の韻を踏まず、句に季語をいれる約束もありません。その自由な表現を、山頭火の句から感じとってください。

*2:行乞:僧侶が物乞いをすることです。