かぶとむし日記

映画、音楽、本の感想を中心に日記を更新しています。

大山澄太著「俳人山頭火の生涯」を読む〜その2

○これは、12月4日にアップしたものの続きです。


■味取(あじとり)観音堂を去る

山頭火が行乞の旅に出る前に、もう少しこの味取観音堂での、山頭火らしいエピソードを、大山澄太氏の著書から引用させてください。彼の人柄が鮮やかに浮かび上がる部分です。なぜ、彼が安定した堂守の生活をやめて、旅に出たのかがわかります。

大山澄太氏が、直接山頭火から聞いたという談話の部分です。

高い石段の上にある小さなお堂でな。わしがもっと落着いて老成していたら、村の人は親切にしてくれるし、本も読めるし、食べることの心配はいらぬし、もっと長く住みついたかもしれないが、未熟なわしは僅か1年あまりで、あてもないさすらいの旅に出てしまったのだよ。

(中略)

味取で一番困ったのは、村の老人が上がって来て、子供が病気だから祈祷してくれというて頼みこまれることであった。ある人は、ちょっとでも拝んでやれば、病気が治っても、治らんでも、お礼に米の一升位は貰えるのですがな……と言うてくれるのではあったが、わしにはそんなことは出来ん、このやくざものの山頭火が観音経を読んだからとて、病気がよくなる筈がないではないか。

手紙やハガキの代筆を頼んでくる婆さんなどもあった。これならわしにも出来る。祭りだの、彼岸だの、節句だのという時には、餅や団子を沢山供えられたものじゃ。勿論、わしに徳があって供えられるのではない。観音様に供えられるそのお下がりをわしが失敬したのだよ。

堂を出ると言ったところ、村の人はどうしてもききいれてくれぬ。何か私達のすることに気に入らぬことでもありましたかというのじゃ、これには困った。つまりわしとしては、何もせずに、俳句を少々作ったり、朝晩鐘をつく位のことで村の信者から、供えものを頂き、養われることが心苦しくなってきたのじゃ。供に応ずる資格のない生ぐさ坊主が、観音様のかげにかくれて住みつくことは恐ろしいことだと思うようになった。わしにはその資格がない。

いかにも山頭火らしい潔癖な道義心と、病みがたい旅への欲求が彼を突き動かして、彼は味取観音堂を去り、無一文の、行乞(物乞い)の旅に出ます。


山頭火のひとり旅がはじまる

山頭火の最初の旅は、大正15年九州地方、とされていますが、当時の日記が本人によって焼き捨てられているためか、残念ながら、細かい足取りはつかめないようです。その後も、ほとんどの彼の足跡は、山頭火自身の日記と、彼が旅先から友人たちに送ったハガキをもとにしております。

大正15年6月には、彼の中でも代表作の1つである句を残しております。山から山へひとり歩いていく、山頭火の孤独な姿がぼくのなかに鮮やかに浮かんできます。大山澄太氏の解説とともに、引用いたします。

○分け入っても分け入っても青い山

山々の青葉が茂り、新緑から初夏へ、山は青さを増してくる。その山を越え、山に分け入り、分け入り、無限につづく山を毎日毎日旅してゆく。何を求めて山に入っていくのであろう、行っても行っても山はいよいよ青くなるだけで、呼べども呼べども答えない。〜中略〜石に坐って仰ぐ山頭火の孤独の姿が見えるようである。

安定した堂守の生活を棄てて、ひとり山のなかを分け入っていく山頭火の、寂しくも、新しい人生への意思が感じられます。彼は、この時、45歳でした。

山を抜けて、町へ降りると、山頭火は今日の食事と宿をとるために行乞(ぎょうこつ)をしなければなりません。人に今日の糧をもの乞いするのは、山の中をひとりで歩くのとは違う、厳しさがあったとおもいますが、、、

○炎天をいただいて乞ひ歩く

旅をしているうちに、暑い土用の炎天が続くようになった。その炎天の下を、軒から軒へ家から家へ、お経をよみながら、鉢を捧げて乞いあるく、それは人間としての一番謙虚な下座行である。ある人は、これを単なる乞食と見るかも知れない。そうだ無一物の山頭火は、乞うて歩かねば食べてゆけないのである。

〜中略〜乞うことによって、自分の執着を滅し、我見我慢を除去しようとするのである、いわば仏道の修行である。だから暑い寒いはいうておられぬ。炎天の下を声をはりあげて読経し、心の雑念を消そうとするのである。


■とんぼと遊ぶ、山頭火

山頭火の句は、苦しく厳しいものだけではありません。次に、どこか明るくて、そして彼の人柄のかわいらしさを表している作品を引用します。

ところで、山頭火の好物は、水とお酒と豆腐(笑)。

○へうへうとして水を味ふ

歩いて、旅するものにとって、谷の清水はいのちの親である。特に水の好きな山頭火は涌いている水に口をつけて、水を味わい、何もかも忘れて水のうまさを満喫したことであろう。

○落ちかかる月を観てゐるに一人

疲れた旅人は、古いお堂の柱にもたれてじっと山に沈んでゆく月を観ている。夜更けである。月は少し欠けている。一人で月と向き合って月を観ている。淋しいといえば淋しい月観ではあるが、彼は孤独に徹しようとしているのである。

○笠にとんぼをとまらせてあるく

夏の終わりが近づくと、野にも山にもとんぼがたくさん飛びまわる。とんぼは人なつこい昆虫で歩いている自分の笠にひょいと来て止る。それが山頭火には何となくうれしいのである。なるべくとんぼが逃げないように、笠を動かさぬようにして、とんぼと一緒に旅をしてる童心の山頭火よ。

○ほろほろ酔うて木の葉ふる

酒の好きな山頭火は、首に吊るしたずだ袋の中に、貰いためた浄物浄財の中から、五厘一銭の銭を選り出して、ちょっと一ぱいひっかける。それが無上の楽しみなのである。田舎の古い酒屋の前に通りかかると、一ぱいやらずには通れない山頭火である。「ほろほろ」という酔い心地はニ、三合程度のものである。舌づつみ打って、そしてまた秋風の中を歩いてゆく。自分もほろほろ酔っているが、木の葉もほろほろと軽い音を立てて笠の上に降りかかる。酒と、山頭火と、落葉、この三つが一つに溶けこんだような句である。

孤独な旅のなかで、谷の清水に渇きを癒したり、美しい月に見入ったり、とんぼを笠に止らせてよろこんでみたり、ほろ酔い気分を楽しんだり、山頭火は、孤独のなかにも、自由の楽しさを俳句で詠いあげていきます。

次回も、さらに山頭火の行乞の旅を追いかけていきたいとおもいます。


【注】引用個所は、すべて、大山澄太著「俳人山頭火の生涯」によりました。