かぶとむし日記

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大杉栄と甘粕正彦の最期(「人間臨終図巻」より)


【写真】:大杉栄


山田風太郎の描いた「甘粕事件」

山田風太郎「人間臨終図巻」を読んでいますが、そのなかから、「甘粕事件」のことをピックアップします。以下は、「人間臨終図巻1」からの引用です。

大正十二年大震災後の九月十六日、無政府主義者大杉栄は、妻の伊藤野枝(いとう・のえ)とともに、大森の実弟大杉勇を震災見舞いにゆき、同家にあずけられていた末妹の子で七歳になる橘宗一を連れて、午後六時ごろ新宿甘木の自宅近くまで帰り、ある果物屋で果物を買っているとき、数名の憲兵に拘引された。


その隊長は、憲兵大尉甘粕正彦(あまかす・まさひこ)で、かねてから社会主義者を「国賊」としてダカツのごとく憎み、特に大胆不敵で戦闘的な大杉に眼をつけて殺意をいだいていたものであった。


二台の車に分乗させられて、麹町平河町憲兵本部に連行された大杉は、一人だけ一室にいれられ、憲兵曹長森慶次郎に訊問されていた。


午後八時二十分ごろ、そこへ音もなくはいっていった甘粕大尉は、声もかけずにその背後から大杉ののどに右腕をまわして絞めつけた。大杉は両手をあげて苦しんだ。


甘粕は右ひざがしらを大杉の背にあてて、十分ばかり絞めつづけて、こときれた大杉をさらに麻縄で絞めてとどめをさした。ついで甘粕は別室に向い、伊藤野枝(いとう・のえ)、少年宗一も絞殺し、屍体は憲兵本部の古井戸に投げ込み、古煉瓦や石やごみで埋めた。


「人間臨終図巻1」〜三十八歳で死んだ人々〜より


以上のように、大杉栄は、甘粕憲兵大尉によって、妻(正式には大杉には、戸籍上の妻がいた)伊藤野枝、7歳の甥宗一とともに、虐殺されました。


■殺人者甘粕正彦のその後・・・


わたしが気になっていたのは、この殺人者甘粕正彦のその後でしたが、山田風太郎は、甘粕正彦の最期も書いています。

甘粕は、少年を含む3人を虐殺し、懲役10年の刑に処せられますが、なぜか2年10ヶ月で仮出所し、昭和2年にフランスへ渡ります。

その後日本が満州国を建てると、甘粕は「満映理事長」として、権勢をふるっていたようです。



【写真】:甘粕正彦


山田風太郎は、「彼は、満州へ渡る日本の文化人の眼には、満州における『文化』の帝王か魔王のような存在に見えた」と書いています。甘粕のような権力欲が旺盛な人間の活躍できる舞台は、戦前の日本にはあちこちにあったのですね。

しかし、昭和20年8月日本は戦争に敗れ、満州帝国も崩壊します。あとは、また「人間臨終図巻」を引用しましょう。少し長くなりますが、甘粕正彦の最期です。

八月十六日、彼(甘粕)は日本人全社員を満映会議室に集めて、
「私は軍人ですから本来なら日本刀で切腹すべきですが、御承知のような不忠不仁の者ですから、そういう死に方に値しないのです。……ほかの方法で死にます。長い間お世話になりました。心からお礼を申します」
と、挨拶した。


九日にソ連軍が侵入して以来、彼のそれまでの魔王的な印象は憑きものが落ちたように消えて、おだやかな、また沈鬱な相貌に変わっていた。


二十日の早朝、理事長室で、彼は隠し持っていた青酸カリをのんだ。


かねてから警戒していた映画監督の内田吐夢(うちだ・とむ)が、異様なうめき声を聞いて飛びこむと、甘粕はソファの前で、両肘を横に張るようにして前かがみになっていた。


内田は瓶の食塩と水を甘粕の口へ流しこみ、あおむけになった甘粕の身体に馬乗りになり、腹部から胸へ力まかせに撫でつづけて吐かせようとしたが、口からは泡が出るばかりであった。


が、上気したように赤らんでいた甘粕の顔が次第に蒼白になり、安らかになっていって彼の息は絶えた。


「人間臨終図巻1」〜五十四歳で死んだ人々〜より


7歳の少年をも絞殺した、殺人者の最期としては、いたっておだやかなものではないでしょうか。