かぶとむし日記

映画、音楽、本の感想を中心に日記を更新しています。

尾道を歩く

この日、雨では、とおもっていたが、曇りで、時々晴れ間がさすちょうどいい天気。とはいえ、何度も坂を登るので、歩いているとひっきりなしに汗が流れてくる。


尾道の路地は狭く、曲がりくねっている。時には家と家の軒がぶつかりそうなほど幅が狭い。戦災に焼けなかったので、むかしの家がそのまま残っているのです、とあとで土地の人に聞いた。そんな狭い路地の急斜面を時々バイクが走ってくる。クルマが入れないので、バイクが有効な乗り物なのだろう。


 
曲がりくねった狭い路地を登っていくと、志賀直哉旧居へ着いた。


志賀直哉旧居を訪問する

路地と坂を登って、志賀直哉旧居に着く。今回の旅行の一番の目的は、ぼくにとってはこの旧居訪問だった。それが果たせた。


父との激しい確執、友人との頻繁過ぎる交流に疲れた志賀直哉が、大正元年の秋から、翌年の夏まで、滞在した三軒長屋だ。ここで、志賀直哉は「暗夜行路」の前身ともいえる自伝的小説「時任謙作」(仮題)を書きあげようとしたが、失敗する。


 
長屋の右端が志賀直哉旧居。大正元年秋から翌年の夏まで滞在した。


志賀直哉は、「暗夜行路」でこの長屋をこう書いている。

謙作の寓居は三軒の小さな棟割長屋(むねわりながや)の一番奥にあった。隣は人のいい老夫婦でその婆さんに食事、洗濯その他の世話を頼んだ。


入館料を払うと、ボランティアのおじさんが、直哉滞在のころについて、説明してくれた。


部屋は二つの和室(6畳と3畳)、それと土間があるだけ。トイレは外の共同便所(いまはない)。お風呂は、坂を下って、下の町まで、銭湯に通っていたという。東京の裕福な家の青年が何を好き好んでこんな不便な生活を求めたのか、と考えるが、直哉は人一倍神経質でありながら、意外にこういう不便な生活を苦にしないところがある。


「暗夜行路」では、、、

彼の家は表が六畳、裏が三畳、それだけの家(うち)だった。畳や障子は新しくしたが、壁は傷だらけだった。彼は町から美しい更紗(さらさ)の布(きれ)を買って来て、そのきたない処を隠した。

寒い風の吹く夜などには二枚続の毛布を二枚障子の内側につるして、戸外(そと)からの寒さを防いだ。それでも雨戸の隙から吹き込む風でその毛布が始終動いた。(中略)その上畳の間がすいていて、そこから風を吹き上げるので、彼は読みかけの雑誌を読んだ処から、千切り千切り、それを巻いて火箸でその隙へ押し込んだ。


などと描写されている。


 
6畳間には、机と鞄が置いてあるが直哉の実際の持ち物ではない。


写真を撮るのは禁止されていなかったが、表に向いた6畳の部屋(直哉の机がある部屋)が遠くからしか撮れない。外に回って撮ろうとすると、ガラス窓なので、ガラスに外の景色が反射してしまう。他に見学客がいないので、親切そうなボランティアのおじさんに、ガラス窓をあけてもらえないか、立ち入り禁止になっているが、6畳の志賀直哉が原稿を書いていた部屋へあげてもらえないか、ダメもとで頼んだ。熱意が通じたのか、おじさんは、許可してくれた。急いで直哉が書斎にしていた6畳を撮影する。


退屈すると、直哉はこの6畳に寝ころんで、下に見える尾道の町や海を眺めた。あちこちで引用されている有名な文章だが、「暗夜行路」から写すと、、、

景色はいい処だった。寝ころんでいて色々な物が見えた。前の島に造船所がある。そこで朝からカンカーンと鉄槌(かなづち)を響かせている。同じ島の左手の山の中腹に石切り場があって、松林の中で石切人足(いしきりにんそく)が絶えず唄を歌いながら石を切りだしている。その声は市の遥か高い処を通って直接彼のいる処に聴えて来た。


大正元年志賀直哉が見たように、この6畳から下の風景を眺めたかったが、今は前の桜の木が高くのびて、眺望をふさいでいる。おじさんの話では、その桜の木を切ってくれるよう市に要望したが、季節になると、山の斜面一帯に咲く桜も尾道の名物で、伐採は許可されなかった、という。


 
左は、旧居から見た風景。前を桜の木がさまたげている。右は旧居より少し上にある「おのみち文学館」から見た光景。こちらの方が、直哉が見た景色に近いか。


直哉がこの旧居から眺めた光景を、「暗夜行路」からもう少し引用する。

夕方、伸び伸びした心持ちで、狭い濡縁(ぬれえん)へ腰かけていると、下の方の商家の屋根の物干しで、沈みかけた太陽の方を向いて子供が棍棒を振っているのが小さく見える。その上を白い鳩が五六羽忙(せわ)しそうに飛び廻っている。そして陽を受けた羽根が桃色にキラキラと光る。


六時になると上の千光寺で刻(とき)の鐘をつく。ごーんとなると直ぐゴーンと反響が一つ、又一つ、又一つ、それが遠くから帰ってくる。


志賀直哉は、見えるものをダラダラ描くことなく、眼下に見える光景をポイントだけ選択し(おそらく本人は、自然にそうしているのであって、それが才能なのだろう)、動き、色彩、音をまぜながら、パノラマのような風景を文章で刻んでいる。ぼくが同じように見ても、漠然ときれいな風景が広がっているのが見えるだけで、結局志賀直哉のように見ることはできない。


キリがないので、志賀直哉旧居をあとにする。まだまだ寄る予定の場所が残っていた。林芙美子の資料などがある「おのみち文学の館」に立ち寄り、また狭い石段を登って、千光寺に向かう。途中文学碑が並んでいるところがあって、そこにも正岡子規林芙美子志賀直哉の石碑がある。この一帯は、いろいろな歌碑や石碑が連続している。


 
左は修理中の千光寺本堂。右は千光寺からの眺望。


やっと千光寺まで登ったが、本堂は修理中だった。釣り鐘と、町に伝説の残る「玉の岩」を写真に収め、遠い海と島の景色をたのしんだ。登り道で汗びっしょりになったので、水道でハンカチを冷やし、それで顔を拭くと、一瞬だけ涼しくなる。昼飯を食べるため、ロープウェーで尾道の町へ戻る。尾道ラーメンを食べた。



■「東京物語」のロケ地を「映画資料館」で確認する

尾道ラーメンのお店から歩いてすぐに、「おのみち映画資料館」がある。尾道で撮影された映画のスチールがいろいろ展示されているが、もっとも興味深かったのは、小津安二郎監督の「東京物語」のスチールと、その撮影につかわれたロケ地が並べて紹介されていること。


ぼくは、自分の大きな勘違いを見つけた。「東京物語」で平山(笠智衆)の家が、千光寺の隣にあるようにおもっていたが、それは浄土寺の間違いだとわかった。笠智衆が庭の手入れをしているシーンがあって、その向こうに中国風の仏閣が見えるが、これは千光寺のものではなく、浄土寺の多宝塔だということがわかる。映画との確認作業はたのしかった。


 
浄土寺の境内。右の多宝塔が「東京物語」で、平山家の庭から見える。


その浄土寺まで歩く。浄土寺は、尾道の端の方にある。電車の線路をくぐって、石段を登ると本堂があるが、ここも境内が修理中だった。工事のために、作業人がたくさんいた。笠智衆原節子浄土寺の境内に立って話すシーンがあるが、どこで撮影されたかもう1つ明確でない。



■「尾道白樺美術館」と広島風お好み焼き(笑)

浄土寺のすぐ近くに「尾道白樺美術館」がある。「清春白樺美術館」が本館で、ここは別館だという。同行のNは前回ひとりで尾道に来たとき見ているので、入館しなかった。「期待しているとガッカリするよ」といわれたので期待しなかったが、展示品は少なく、がっかりした。800円の入館料は高い。町のあちこちに貼られているポスターの、岸田劉生の絵もない。


何かヨーロッパの名前の知らない人のエッチングが、中央の部屋にたくさん陳列されていたので、「白樺」との関連を聞くと、武者小路実篤が好きだったレンブラントが影響を受けた(はずの)16世紀の画家で、日本ではほとんど無名なので、貴重な展示だと説明を受けた。その貴重さがわからないので、なんだかこじつけの説明を受けたような気がした(笑)。



西国寺は、石段を登ると門の左右に大きな草鞋がかかっている。


帰りは再び山を登って西国寺を見学。山を下りると、そのまま町を歩いて駅前の宿にチェックインした。1日歩いたので、シャワーを浴びて横になると、外出するのがおっくうになったが、夜の8時頃出かけて、お好み焼き屋さんで、飲む。店のマスターが感じよく、お好み焼きで腹がいっぱいになると、メニューにないつまみを適当につくってくれた。


疲れているので、早めにひきあげる。