良寛は、倉敷市玉島の円通寺に22歳から修行する。良寛がこの寺で何年修行したかは、明らかではないらしいが、中野孝次氏は、円通寺の師である国仙和尚が亡くなるまでとしても、34歳までの12年間はここにいたはずだという。
円通寺の周囲の修行者は、出家したとはいっても、寺院制度の出世コース、寺院への就職を捨てたわけではなくて、真の道を志す良寛は、話し相手のひとりもないまま、ただ修行にこころを打ち込む。
この辺の経緯を中野孝次は以下のように書く。
おそらくこの時代にも彼の同輩は、真の仏道修行のためというよりもやがてどこかの寺の住職にでもなって安楽な暮しをしたいという、それくらいの世俗的な気持ちで出家した者が多かったであろう。いつでもそういうものだ。真に道を志す者なぞほとんどいず、そんな連中の中に(良寛が)心を許しあえる友なぞ一人もいなかったに違いないのである。
『良寛に会う旅』より
師の国仙和尚が亡くなってから、良寛は放浪の旅に出る。その間、良寛がどこでどう暮らしていたかわかっていないらしい。のちになっても、良寛は放浪時代のことを書き残していない。
裕福な商家に生まれながら、家業を捨て、出家して厳しい修行に絶えながら、寺院制度のなかに生きることもなく、良寛は乞食(こつじき)の生涯を選択する。
個の自覚のない時代。ひとりで生きることは、なんの保障も擁護も得られないに等しい。良寛はあえてその厳しい道を選んだ。
中野孝次は書く。
わたしは、良寛はそういう生の機微を若い時にすでに悟って、その上であえてすべてを捨て、乞食漂白、無一物の生を選んだのだと想像する。生きているということ、また冬が去り春が来たということがありがたく感じられるには、死をつねに自覚し、また冬がいかに辛くともその冬に耐える長い日々がいるのである。苦があって初めてよろこびがあることを、良寛くらいよく知っていた人はないようにさえ思う。
『良寛の呼ぶ聲』より
ぼくはまだ良寛のことを何も知らないので、信頼できる中野孝次氏の本を皮切りにこれからも、良寛の本を読んでいこうとおもっています。みなさんのご教示をお願いいたします。