かぶとむし日記

映画、音楽、本の感想を中心に日記を更新しています。

『ビートルズ売り出し中!』

ビートルズのPRマンが見た「日本公演」

ビートルズ売り出し中!―PRマンが見た4人の素顔
著者のトニー・バーロウは、ブライアン・エプスタインに雇われたビートルズの広報担当マン。ビートルズの爆発的な人気を演出するのに、大きな役割を担っていた。

雑誌や新聞の記事の扱いをチェックし、必要ならば自らも原稿を書き、インタビューの申し込みを調整する。

有名な「ファブ・フォー」というビートルズの別称は、アルバム『ウイズザ・ビートルズ』に書いたバーロウのライナー・ノートから誕生した。

ビートルズ・ブームが沸騰するまでは、彼にはいかにビートルズを有名にするかが、主な仕事だったが、ビートルズの人気が世界的に拡がると、ツアーのメディア対策などが重要な業務になってくる。

トニー・バーロウは、ビートルズのツアーに同行し、行く先々の取材合戦の申し込みを調整し、ビートルズが最小の労力ですむように、インタビューをセッティングする。時にはインタビューのシナリオも書いたが、ビートルズは、アドリブで彼のシナリオを何倍もおもしろいものにした。

ビートルズの人気が狂気じみてくると、あらかじめ予定した通りに事は運ばず、突発的な事件があちこちで勃発する。時には、押し寄せるファンからビートルズをボディーガードのように守らなければならないときもある。ファンが警備員やマル・エバンス*1の警護を突破して、押し寄せてくることがあるからだ。ビートルズの身の安全が第一で、「それは仕事外だ」などとはいっていられない。

ビートルズ売り出し中!』は、ビートルズのツアー時代を通じて、ビートルズのもっとも近くにいたPRマンが見た、ジョン・レノンジョージ・ハリスンリンゴ・スターポール・マッカートニー、そしてブライアン・エプスタインの実像を描いた本。

だいぶ内容が詰まっている厚い本なので、そのなかから、今回は、1966年の日本公演に触れた部分だけを、とくに詳しくご紹介しておきたい、とおもいます。

では、さっそく本の内容へ…

厳重な警備の理由?

ビートルズもトニー・バーロウも、最初は日本の過剰ともいえる警備に不機嫌だった。しかし、ホテルで数人の女性グループから、「ビートルズは狂信的な右翼の学生集団から生命をねらわれている」と説明されて、警備の重々しさをなっとくする。映像版『ビートルズ・アンソロジー』でも、リンゴだったかに、同様の発言がある。

しかし、そのことをビートルズ・サイドに教えたという女性グループとは何者だったのだろう? 彼女たちの情報源はなんだったのだろうか。

そして、羽田空港に3,000人、武道館に延べ35,000人の警官を動員させる力をもった、ビートルズ暗殺を企む「狂信的な右翼の学生集団」とは、どんな組織であったのか?

ぼくは、この説明にどこかスッキリしない。

ビートルズ羽田空港へ到着!


ビートルズは、羽田空港へ到着した。トニー・バーロウが見た日本の警備をいくつか引用してみる。

  • 羽田空港では警官隊が完全に状況を把握していた。ぼくたちの行動は前もって秒単位ですべて決められており、打ち合わせなどいっさい必要なかったのだ。軍隊のような正確さで、ぼくたちはタラップの上でまずはポーズをとってマスコミ用の写真撮影を終えてから滑走路に降り立った。
  • 何よりも驚くべきことは、到着が午前3時40分という早朝にもかかわらず、1,500人ものファンが暗闇の中でビートルズを出迎えていたことだった。ファンの前では(クルマの)スピートを落としてほしいというぼくたちの要望は聞き入れられなかった。
  • 東京都内に向かう首都高速道路で、ぼくたちはとてつもないスケールの警備網を目の当たりにすることになった。郊外の住宅からその先に広がる大都会への移動ルートでは、一般車は排除されてすべての交差点が通行止めとなり、武装警官の運転するオートバイが伴走していた。

東京ヒルトン・ホテルへ

ビートルズは、東京ヒルトン・ホテル(現キャピタル東急)に到着する。4人はいつものとおり4つの部屋をとらず、2つの部屋に2人ずつ宿泊する。誰と誰が組むかは、そのときで違った。リンゴによれば、でもたいてい4人は寝るとき以外は1室に集まっていた、という。

ホテルに到着しても日本警察の警備はゆるまない。

スケジュール管理になるとこれは彼(永島達司*2)ではなく、事実上警察の警備班の担当になっていて、ぼくたちは厳重な分刻みのスケジュール表を渡されていた。軍隊のような正確さでもって些細な行動すらすべて監視され、管理下に置かれるという状況は非常に落ち着かないものだった。


ビートルズは、ホテルから武道館へ向かう。

ヒルトンから武道館までの道程を初めて隊列をなして移動したとき、この都会の大通りに整然と並んでいる警官隊と機動隊の姿にはまたしてもショックを受けた。ファンは秩序正しくグループにまとめられ、指定された橋や交差点に集められていた。猛スピードで通り過ぎる車では、歓声はいっさい聞こえなかったが、笑顔で旗を振る姿はしっかり見えていた。こんなに歓待してくれている若者らが危険を突きつけてきているようすはまったくないように見えたが、警官隊はその圧倒的な勢いでファンを押さえつけていて、ピストルを振りまわす警官までいた*3


異常ともいえるこの厳重さに、トニー・バーロウは再三疑問を発している。しかし、結局……あの説明で自分をなっとくさせる。

しかし、三年間のワールド・ツアーのなかで最も厳重な警備へのこうした不快感はもちろん、ビートルズに対して殺害予告が出されていることを知ってたちまちにして解消されることになった。

トニー・バーロウが見た「ビートルズの武道館コンサート」

  • 武道館ホールは、設備的にも最高クラスだった。ほぼ円形の建物には二層のスタンド席があり、一万人を動員することが可能だった。広々としたアリーナには客席はなく、広大なスペースの一方に約3メートルの堂々たる仮説ステージが設置され、上からは青い幕がかけられていた。
  • コンサートは、18時30分開演で、一度の公演しかない夜にしては早いスタートだった。まず目についたのが、行儀のよいファンの姿だった。ビートルズは「行儀がよい」ではなく「規制されている」という表現を使っていた。確かに会場は興奮した空気に包まれていたものの、どこか制御された感じもあった。


ビートルズは鋭い。武道館にいたぼくらは、もうすぐビートルズと会えることに熱くなっていた。しかし、それをからだで表現することを規制されていた。

  • これほど静かな雰囲気は1964年のパリ公演以来だった。ただしパリ公演がおとなしかったのは、年齢層が高い男性客が多く、ガールフレンドの前で大騒ぎするのをはばかったからだろうと思っていた。武道館では、数人に一人の割合で警官がいたという警備の厳しさが、ティーンエイジャーを萎縮させてしまったのかもしれない。
  • これがアメリカならビートルズがステージに現れる前から絶叫がこだまして大騒ぎになるところだが、東京では誰もが警官の指示に従い座席に着き、わくわくした口調ではあるがあくまで静かにおしゃべりをするという状況だった。
  • 他の国でのコンサートで見られるような、おそろしくヒステリックな悲鳴はまったく聞こえなかった。

トニー・バーロウの目にも、日本のビートルズ・ファンはおとなしくみえた。なのに、悲鳴と絶叫でビートルズの演奏が聴こえなかった、という大勢のひとたちは、一体何を聴いていたのだろう?

ビートルズの演奏がスタートする……

  • ビートルズが武道館のステージに登場し、全11曲のセットリストのオープニング「ロックン・ロール・ミュージック」を演奏した瞬間、それまで静かだったファンは大歓声を上げて迎え、小さな花束がステージに向かって飛び交った。ところが、盛り上がったはずの観衆はすぐに落ち着いて、膝に手を置いて静かに座ってしまった。

トニー・バーロウがもっと観客の動静をよく見ていれば、座席わきの通路にずらっと並んだ警備員が、立ち上がるファンや、ハンカチを振るファンを、座席に押さえつける姿が見えたはずなのに。ファンは盛り上がりたくても、膝に手を置いて静かに見るしかなかったのだ。

アリーナ席に観客はいない。ぐるっと警備員が配備されて、1、2階席にいるファンの動静を下から監視していた。

  • ビートルズにしてみれば、自分たちが演奏するがらんとしたアリーナに建てられたステージから、二層のスタンドの観客席へ演奏を届けるのに空っぽな濠を越えなければならず、観客との間の大きな距離を埋めるのに困難を感じていた。
  • 初日からマイクのトラブルにも悩まされた。正面のマイク・スタンドの高さがするすると低くなってしまったり、くるくると回ってしまったりで、客席に届くボーカルの音は突発的に音量が上下した。
  • ボーカルを担当するジョンとポールとジョージは、それぞれ何度もマイクを引き上げて留め具を締め直さなければならなかった。これはとくにジョンがいらだって悪態をつきながら、マル(マル・エバンス)に何とかしてくれとどなるほどだった。


そして問題となるビートルズのライヴ演奏をビートルズ・サイドのトニー・バーロウは、どのように見ていたのか。

  • ステージ後方には、THE BEATLESという文字を縁取った電飾が設置されていたが、これは非常に単純ながらインパクトのある効果的な背景になっていた。しかし、すばらしい舞台装置や武道館が隅々まで音が行き渡る音響環境を誇る会場であったにもかかわらず、演奏の内容はがっかりさせられるものだった。
  • ぼくは数々のビートルズのコンサートに立ち会ってきていたが、そのなかでも武道館公演の初日は最低のものの一つだった。ボーカルは感情や情熱に欠け、演奏も不注意なミスが多く投げやりだった。
  • ビートルズのパフォーマンスでこれほど満足のいかないものはほとんどないと言ってもよかった。


厳しいライヴ評価だが、ほとんどすべてのコンサートに立ち会ってきたトニー・バーロウとしては正直な意見だろう。

武道館コンサートは静かだったので、ビートルズにも演奏のまずさはよく聴こえた。ビートルズも動揺していた。リンゴが「いい夜もあれば、悪い夜もあるさ」と仲間をなぐさめる。

しかし、ジョージは冷静で手厳しかった。

  • 「今日の『恋をするなら』は、ぼくがこれまでやってきたなかで最低だったよ」
  • 「もうさ、事実をしっかり見ようよ。最近のツアーでぼくたちの演奏はこんなものなんだよ。こういう意味のないステージでいたずらに自分たちを消耗させてるだけなんだ。レコーディング・スタジオならもっとましなことがいろいろできるのに」

ビートルズのツアーの終了は目前にきている。ジョージの言葉は、みんなが気づきたくない心を代弁して語っていた。このままツアーを続けていけば、なんの感情も情熱もなく同じ曲を同じように毎晩こなす、ビートルズは最悪のバンドになってしまう。ビートルズがツアーの終焉をいつ決断したのか明らかでないが、決定づけたのは、案外に、観客が静かだった日本公演初日だったのかもしれない。

まだまだトニー・バーロウは日本の思い出を書き残している。しかし、もう十分に長くなってしまった。

ビートルズの武道館初日に厳しい評価をしたトニー・バーロウは、その後の公演には評価をゆるめている。最後にそれを引用して、長過ぎる本の感想を終ります。

最初の武道館公演がひどかったという事実は、ジョン、ポール、ジョージとリンゴに相当なショックを与えたようで、4人は残された4回の完売のショーにより全力投球することになった。2日目以降、ステージでもオフ・ステージでも4人は調子を取り戻し、歌と演奏もよくなって、いい精神状態にあった。


【追記】昨夜、jinkan_mizuhoさんからお借りしたDVDで、久しぶりにビートルズのライヴ映像をまとめて見ました。

  • 1964年ワシントン・DC・コンサート
  • 1965年シェア・スタジアムのコンサート
  • 1965年パリ公演
  • 1966年日本武道館公演

アメリカ上陸後、はじめてのコンサートである「ワシントン・DC」や、はじめての野球場コンサートで5万人を収容したといわれる「シェア・スタジアム・ライヴ」は、ビートルズものりにのっています。何度も見ていますが、見るたびにビートルズのライヴ・バンドとしての魅力に圧倒されます。

日本武道館の映像は、初日のものではありませんでした(何日のものか、ぼくには特定できません)。マイク・スタンドも安定しています。

この映像じたいもはじめてではないのですが、いつのまにか、ぼくのなかで日本公演=熱気を失った「消化試合」というイメージが定着していたようです。

しかし、この映像のビートルズは、ぼくの予想を上回っていました。トニー・バーロウがいうとおり、初日の不出来にビートルズは発奮したのだとおもいます。ビートルズはツアーをやめる決心をしたあとも、日本のファンにこんな熱い演奏を見せてくれていたのか……
と、お酒を飲みながら感動してしまいました。

jinkan_mizuhoさん、ありがとうございます。

*1:マル・エバンス=ビートルズの友人兼ボディーガード。ビートルズは彼を愛した。

*2:永島達司=ビートルズを日本に呼んだプロモーター。ミュージシャンからの信頼が厚かった。

*3:ピストルを振りまわす警官までいた=日本の警察が、そう簡単にピストルを振りまわすとはさすがに思えない。そのようにバーロウに見えたのか、あるいは表現の勢いかもしれない。