かぶとむし日記

映画、音楽、本の感想を中心に日記を更新しています。

斎藤一著『志賀直哉との対話』(深夜の読書から)

ナイルの水の一滴

奥付を見ると、昭和54年11月26日発行とある。西暦になおすと1979年。むかし読んだことがあるのはたしかだけど、それがいつだったのか、それに内容もほとんど忘れていた。

ぼくの読書は、系統だてたりしてないし、読みながらメモすることもないので、どんどん記憶の彼方へ消えてしまう。残念な気もするし、それでいいような気もする。ただ、ブログなど書く気になったのは、記憶にとどめておきたい、という気持ちがすこしはあるからかもしれない。

文京区の真砂図書館でみつけて、借りてきた。晩年の志賀直哉の風貌や声の抑揚までが、本のなかから伝わってくる。うれしくてほかの読みかけの本を全部中断して、読みふけってしまう。

この作家から教えられたことはたくさんありすぎるけれど、1つは、情緒に流されてものをみない、ということだろうか。素のままでみる。これがなかなかむずかしい。情緒も知識も邪魔でしかない。

そういうものはふだん修練しておいて、その場では全部忘れて対象をみる。それが志賀直哉の心眼の極意ではないか、とおもう。

晩年志賀直哉は、ほとんど作品を書かず、まれに書いても断片的なものだった。しかし、それがことごとく輝いている。

歌も句も読まない志賀直哉だったが、最後に書き残した断片を書き写しておこう。


●ナイルの水の一滴

人間が出来て、何千万年になるか知らないが、その間に数えきれない人間が生れ、生き、死んで行った。私もその一人として生れ、今生きているのだが、例えて云へば悠々流れるナイルの水の一滴のようなもので、その一滴は後にも前にもこの私だけで、何万年遡っても私はいず、何万年経っても再び生れては来ないのだ。しかも尚、その私は依然として大河の水の一滴に過ぎない。それで差支えないのだ。

昭和四十三年(未発表)


唐突だけど、昭和43年は1968年、ビートルズが『ホワイト・アルバム』を発表した年だ。その同じ年に、志賀直哉が書き記した断片ということになる。*1

だからどうしたかというと、なんの関連もないが(笑)、ぼくは自分の記憶をふりかえるとき、いつもそういう風にして、個人的な年譜を記憶に結びつける。


あの名作「焚火」に登場するKさんが……

なにげなく読んでいたら、こんな著者の文章がでてきた。

志賀さんから一生涯定住の家をもたず、雪を追って暮らす猪谷六合雄(くにお)さん夫婦(『雪に生きる』の著者、千春君の父母)の話を出される。このごろ、アメリカのマイクロバスの古いのを買入れ、自分の手で車内を家に改造した。書斎からベッド、キッチンはむろん、トイレまで完備している。このバスを家として日本中あちこち、雪を追って移動しているというお話。


そして、志賀直哉の談話がこう続く。

志賀:この前、その大きな図体のバスをうちの前まで乗りつけて来た。久しぶりなのでボクがゆきつけのすし屋に案内する段になって、われわれ夫婦もその古バスに乗せられたのには閉口したな。アッハッハ。帰りもそれで送るというから、買物があるとかなんとかいってこっちはタクシーで帰ったけどね。古くからの親しい友だちで、むかしボクの赤城山の小屋もクニさんの手作りだった


志賀は几帳面なイメージに反して、こういう世の中の常識を超えて自分らしく生きるひとを好む。古いバスにのせられて困ったような話をしながら、この<クニさん>の「迷惑」を楽しんでいる。

「ボクの赤城山の小屋もクニさんの手作りだった」というところを読んでハッとした。では<クニさん>とは、名作「焚火」に登場するあの<Kさん>のことではないか。

「焚火」は、志賀直哉が新婚時代、赤城山の奥に住んでいたころの話だ。新婚の夫婦がいきなり赤城の山奥に住むというのがちょっと変わっている(笑)。美しい景観を好み、都会人でありながら不便を苦にしない志賀の性癖がわかる。

そして、その新婚夫婦の住む丸太小屋を手作りでつくったのが、この<Kさんことクニさん>である。

短編小説「焚火」を、芥川龍之介は「墨絵のような作品」(「文芸的なあまりに文芸的な」)と、絶賛した。


「焚火」の概要はこうだ。

新緑の季節。志賀夫妻、Kさん、画家のSさんと、夕方赤城の湖へ舟遊びにでかける。しばらく舟をすべらせてから、岸に小舟をとめて、みんなで焚火をする。

静かな深い森のなかで焚火をしていると、話はそれぞれの不思議な体験のことになる。


Kさんの話……。

それは、雪の季節だった。

東京にいる姉さんの具合が悪いというので、赤城をくだって見舞いにいった。東京に3日いたが、思ったほど悪くなかったので、また赤城へもどってくる。

帰ったその日は赤城のふもとに宿泊して、翌日山をのぼるつもりだったが、月がきれいでからだも元気だった。小さなころから雪にはなれていた。Kさんは、その日登ることに決める。

日暮れには、二の鳥居まで来た。しかし、登るにつれて雪は深くなる。人通りがないところなので、雪が柔らかく、一歩あるくと、腰くらいまではいってしまう。子どものころから山で育ったKさんもさすがにまいってきた。

志賀直哉の文を引用しよう。

月明りに鳥居峠はすぐ上に見えている。夏はここはこんもりとした森だが、冬で葉がないから上がすぐ近くに見えている。そのうえ、雪も距離を近く見せた。今更引き返す気もしないので、蟻の這うように登っていくが、手の届きそうな距離が実に容易でなかった。もし引き返すとしても、幸い通った跡を間違わず行ければまだいいとして、それを外れたら困難は同じことだ。上を見ると、何しろそこだ。

Kさんは、もう一息、もう一息と登った。別に恐怖も不安も感じなかった。しかし何だか気持ちが少しぼんやりしてきたことは感じた。

「あとで考えると、本当は危なかったんですよ。雪で死ぬ人はたいがいそうなってそのまま眠ってしまうんです。眠ったまま、死んでしまうんです」


それから2時間。Kさんはとうとう峠まで登った。すると、向こうから提灯が2つ見える。今時分、とKさんは不思議に思った。

それは、Kさんを迎えにきた義理の兄さんと、Kさんの家の者たち、3人だった。

「今、お母さんに起されて迎いに来たんですよ」

Kさんは、ぞっとする。母には帰る日を知らせていなかった。

母が「Kが呼んでいる」と、みんなを起したのは、ちょうどKさんが一番ぼんやりした時間と同じだった。

3人が巻き脚絆を巻いているあいだも、Kさんのお母さんは少しも疑うことなく、おむすびをつくったり、火を焚きつけていたという。

「Kさんは呼んだの?」と妻(志賀夫人)が訊いた。
「いいえ。峠の向こうじゃあ、幾ら呼んだって聴こえませんもの」
「そうね」と妻は言った。妻は涙ぐんでいた。


山は段々に闇が濃くなる。焚火の火も小さくなった。

そのあとの最後の場面を、ぼくは要約できない。長いけど、そのまま書き写して終わりにしよう。

さっきから、小鳥島(ことりじま)で梟(ふくろう)が鳴いていた。「五郎助」といって、しばらく間をおいて、「奉公」と鳴く。

焚火も下火になった。Kさんは懐中時計を出してみた。
「何時?」
「十一時過ぎましたよ」
「もう帰りましょうか」と妻が言った。

Kさんは勢いよく燃え残りの薪(たきぎ)を湖水へ遠く抛(ほお)った。薪は赤い火の粉を散らしながら飛んでいった。それが、水に映って、水の中でも赤い火の粉を散らした薪が飛んでいく。上と下と、同じ弧を描いて水面で結びつくと同時に、ジュッと消えてしまう。そしてあたりが暗くなる。それがおもしろかった。みんなで抛った。Kさんが後に残ったおき火を櫂(かい)で上手に水を撥ねかして消してしまった。

舟に乗った。蕨取りの焚火はもう消えかかっていた。舟は小鳥島を回って、神社の森の方へ静かに滑っていった。梟の声が段々遠くなった。


このKさんと、志賀直哉は晩年まで交流があったのだ。

志賀直哉は、「古くからの親しい友だちで、むかしボクの赤城山の小屋もクニさんの手作りだった」と、簡単に話している。古いマイクロバスを家にして、雪から雪を追って生活しているKさんが、おもしろい。長いあいだ志賀との交流が絶えなかったこともうれしい。

ところが、斎藤一氏(著者)は、短編「焚火」とクニさんの関連について、何も言及していない。「焚火」を読んでいないのだろうか。

*1:もっとも志賀は、この「ナイルの水の一滴」に近い草稿を、その10年ほど前に書いている。ずっと志賀の頭のなかで熟成されたきたテーマなのだろう。