かぶとむし日記

映画、音楽、本の感想を中心に日記を更新しています。

三遊亭圓朝の世界を楽しむ!


しばらく前に買ったまま読みそびれていた、雑誌「東京人」の三遊亭圓朝特集を読む。圓朝作の落語や人情噺は多く、原作を意識しなくても、ふだんから自然自然となじんでいるものがほとんどだ。


わたしが噺や映画で知っている作品だけでも、、、


【怪談】

  • 怪談牡丹燈籠
  • 真景累ケ淵(しんけいかさねがふち)
  • 怪談乳房榎(ちぶさえのき)


【落語】

  • 鰍沢(かじかざわ)
  • 大仏餅(だいぶつもち)
  • 黄金餅
  • 死神
  • 心眼


【人情噺】

  • 芝浜
  • 文七元結
  • 双蝶々(ふたつちょうちょう)雪の子別れ


などがある。これも圓朝作品のなかの一端だろう、とおもう。


人間の業を鋭く描いたかとおもうと、人の厚い情愛に泣かせられたり、圓朝が描く世界は題材も豊富だ。雑誌のコピーに「江戸・明治を駆け抜けた、落語界のシェイクスピア」とあるが、なっとくしてしまう。


そんななかから、平成の長屋「極貧荘」に暮す身として、長屋をめぐる圓朝の傑作を4つほどピックアップしてご紹介してみます。噺家にはとうてい及びませんが、圓朝の描く世界をわずかでもたのしんいただければ、望外のよろこび。


では、、、

■怪談牡丹燈籠

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映画で知る「怪談牡丹燈籠」が、長い長い物語のほんの一部分だと知ったのは、20代のころ、はじめて三遊亭圓朝全集の「怪談牡丹燈籠」を読んだときだった。お盆の夜、お露が下駄の音を鳴らしながら、恋しい新三郎をたずねていくのは、話の発端にすぎない。幽霊に100両をもらって、新三郎の家のお札をはがした伴蔵とお峰の話が、埼玉県の栗橋を舞台にして、その後続くのである。この伴蔵とお峰の話も、欲望と嫉妬に翻弄される夫婦の姿がリアルに描かれている。


ちなみに、お露の墓は谷中の「新幡随院(しん・ばんずいいん)」にある。新三郎や伴蔵の住む長屋があったのは、根津神社の近くである。


このへんは、なんどか歩いた。実際歩いてみると、すぐ近くだ。谷中の墓地から、お露は、おつきの女中お米をともない、夜な夜な根津の新三郎の長屋をたずねていく……。



黄金餅

キング落語1000シリーズ 黄金餅
下谷台東区)に住むケチな坊主西念(さいねん)は、小金をひそかに貯めている。死病にとりつかれたが、死んでも小金を他人に渡したくない。長屋の金兵衛に餅を買ってきてもらい、その餅にお金をいれて、全部飲みこんでしまう。それをこっそり隣から見ていた金兵衛は、寺で火葬した死体から黄金をとりだして、ちゃっかりせしめてしまう、という話。


死体に黄金がはいっていることを、火葬するおんぼうは知らない。そこで、「あまり焼き過ぎないようにひとつやってくれ」と、金兵衛がおんぼうにたのむあたりが面白い。


ケチな坊主西念が死んだのは、下谷の貧しい長屋。ところが、西念の菩提寺である木蓮寺は、麻布にある。というわけで、金兵衛はじめ長屋の連中は、西念の棺を下谷から麻布までせっせとかついでいく。


その下谷から麻布までの町名・道筋を、落語は詳細に語って、この噺の聴かせどころになっている。わたしが聴いた立川談志のCDでは、江戸時代の道筋を現在の建物と比較しながら、下谷から麻布までのコースを説明して、おもしろかった。



文七元結

林家正蔵 名演集 1 文七元結/五人廻し/蔵前駕籠
腕はいいが、無類の博打好き左官の長兵衛。どうにも素行が改まらず、日々の暮らしは窮するばかり。見かねた娘のお久は、吉原の遊郭に自ら身売りし、その金の50両をもとでに、仕事に精を出し、わたしを迎えにきてください、という。


お久の心意気に感動した店の女将(おかみ)は、「おまえさんが1年間ちゃんと働いて、大晦日までにこの50両を返してくれるなら、それまでこの娘は店に出さないよ。私が習い事もちゃんとさせる。ただ大晦日を1日でも過ぎたら、容赦しないよ」という。


さすがに改心し、この50両をもとでにやり直そうと決意した長兵衛。ところが、その帰り道、得意先の売上金・50両をなくして、吾妻橋から身を投げようとする、鼈甲問屋の奉公人・文七にでっくわす。


長兵衛は、必死にとめるが、文七は「あの50両をなくして、生きては帰れません」と、ちょっと目を離すと飛び込もうとする。


「おめえの命が助かるなら、おれの娘は死ぬわけじゃねえ」といいながら、文七に50両を渡して、長兵衛は、名前もいわずその場をさってしまう。


ところが、文七がなくした50両は、本人より先に、忘れてきた先方から、鼈甲問屋へ届いていた。それを知らない文七は、主人に50両を差し出す。あわせて、なんと100両の金。金の出所をいぶかしんだ主人が文七を問い詰める。文七は、50両を置いたまま、名前もいわず逃げ去ってしまった<命の恩人>のことを主人に告げる。


鼈甲問屋の主人が、長兵衛の住む長屋をさがすのはそれほどむずかしくなかった。主人と文七が長兵衛の長屋を訪ねると、50両をめぐって、夫婦喧嘩の真っ最中。


娘のお久が身を売ってつくった50両を、彼の妻は、また長兵衛が博打ですってしまったとおもったのだ。


鼈甲問屋の主人は、「あなたのような立派な方とぜひご親戚になりたい。ついては、お久さんと奉公人の文七を夫婦にして、お店のあとをつがせたい」と長兵衛に願い出る。


江戸っ子の気風(きっぷ)とはこのようなものか。貧乏で生活が窮しても、心意気だけは、忘れない。人の不幸を黙ってみていられない。もちろん、こんな話が江戸の世ではあたりまえだった、というわけではないだろう。だから、1つの理想として語られ、作中の鼈甲問屋の主人をも感動させたわけだ。


長兵衛の妻は、後妻である。妻にとって、お久は先妻の娘になる。ところが、この後妻はお久がいなくなると心から心配し、長兵衛が文七に50両をわたしたため、これでお久を見受けできないと知ると、逆上して長兵衛にくってかかる。わが子ではないお久によせる想いの深さに感動する。本筋ではないが、物語の設定を本当の母子でないところにおいた、三遊亭圓朝の物語作家としての巧妙さに感心してしまう。



■芝浜

落語名人会(42)芝浜
魚屋の勝は、家業にはいっこう身がはいらず、隙をみてはお酒ばかり飲んでいる。この主人公、なんだか他人のような気がしません(笑)。


女房に叩き起されて、しかたなく芝の魚市場へいくが、時間を間違えたのか誰もいない。夜明けの芝浜で、煙管をふかしていると、財布をみつける。なかをあけると大金だ! これは仕事などやってるばあいじゃない。


家に帰るや、長屋の連中を集めて飲めや歌えやの大酒宴。これからは、毎日好きなだけお酒を飲んで暮せる。早起きは三文の得、とはこのことか、と勝は有頂天だ。


しかし、翌日勝が二日酔いで目を覚ますと、「仕事もしないで、あんなにお酒を飲んで、支払いはどうするのか」と女房につめられる。「あの財布があるだろう」というと、「どこにそんなものがある。おまえさん、また酔払って勝手な夢でも見たんだろう」と、相手にもされない。


勝は、家中財布をさがしたが、ない。あれは泥酔のなかで見た夢だったのだ。そういえば、あんまり出来すぎた話であったよなあ。


勝は、それからすっかりお酒を絶って、家業の魚屋に精を出す。3年も働くと蓄えも増え、いよいよ店を構えることになった。


勝は女房に、「バカな夢をみずに、ちゃんと働いてここまでこれた。これも、目を覚ましてくれたおまえのおかげだ」と感謝を伝える。


「実はねえ、おまえさんが拾ったあの財布だけど……」と、女房はあの財布をもってくる。「あのままじゃあ、おまえさんはきっとこれを使い果たして……。だからお役所に届けて……それが3年しても落とし主が出てこないので、戻ってきたんだよ」


「おまえさんも、よく働いたねえ。大好きなお酒を飲むかい」と女房。


少し考えていた勝だが、「よそう。また夢になるといけねえ」



◆   ◆   ◆


怪談に、落語に、人情噺に、三遊亭圓朝の世界は、広くて深い。怪談では人間の業を、落語では人間の欲望や心の弱さを、人情噺では、欲得よりも義を大切にする、人間の情愛を描いている。


もちろん、それぞれがきちんと分類されているわけではない。いってみれば、表現の違いはあっても、どれも三遊亭圓朝の世界で、人と人とのこころの機微がとらえられて、味わい深い。


さてと、我が「極貧荘」でたのしむ長屋噺を、みなさんへ、うまくおすそ分けできたでしょうか。


いわく、、、


<極貧荘には、長屋噺がよくにあう>(笑)