かぶとむし日記

映画、音楽、本の感想を中心に日記を更新しています。

吉田修一『初恋温泉』(集英社)

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『初恋温泉』は短編集。以下の5編が収録されている。、

  • 「初恋温泉」……(熱海「蓬莱」)
  • 「白雪温泉」……(青森「青荷温泉」)
  • 「ためらいの湯」……(京都「祇園畑中」)
  • 「風来温泉」……(那須二期倶楽部」)
  • 「純情温泉」……(黒川「南城苑」)

いま、この作家に惹かれています。

■初恋温泉

主人公の重田は、居酒屋のチェーン店の事業に成功する。吉祥寺本店、表参道店、麻布店に続いて、吉祥寺にもう1軒、4軒目をオープンしようという順調な勢いだ。


妻の彩子は、高校の同級生で、初恋の女性だった。自分の成功を見ていてほしい女性は、重田にとって彩子しかいない。


居酒屋のアルバイト時代から夢だった事業に成功し、初恋の女性と結婚し、誰からもうらやまれる順調な人生におもえたが、ある日妻の彩子が離婚したい、と切り出す。二人のどちらかに新しい恋人ができたわけではない。今だって、仲がいい。だから重田には、妻の気持ちがわからない。


吉田修一は、こんな風に描いている。


二人は温泉にはいっている。彩子が「先にあがるね」という。

脱衣所へ戻ろうとする彩子の背中に、重田は「おい」と声をかけた。そして、「俺なりに、お前を幸せにしてやろうと思ってやってきたつもりだ……」とだけ呟いた。
 自分では、胸を張っていたつもりだが、顔は下を向いていた。透明なお湯の中、脛毛の生えた脚が、まるで枯れ枝のように細く見えた。
 顔を上げると、濡れたタオルで胸を隠した彩子が、湯煙の中に立っていた。そして、「私なりに、あなたに幸せになってほしいと思ってやってきたつもりよ」と言った。
「だったら……」
 重田は熱い湯を踏んでその場に立った。握っていたタオルが落ちて、湯の中でゆっくり広がり、足首にからみつく。
「幸せなときだけをいくらつないでも、幸せとは限らないのよ」と彩子が言った。
「どういうことだよ?」
 彩子は何も答えずに脱衣所へ消えた。


明確な妻の変心はわからない。でも、何か小さな亀裂が夫婦のなかにできてしまったのはわかる。妻はすこしも変わっていないようなのに、何かが決定的に違ってしまった。吉田修一は、その<何か>を繊細な描写で掬いとる。

重田は湯船に突っ立ったまま。足首にからんだタオルを蹴った。まるで夢の中で歩いているみたいに緩慢な動きだった。(略)思い描いたとおりの生活を、やっと手に入れたはずなのに、一番そこにいてほしい女がいない。


最後はこう終わる。

重田は熱い湯にからだを沈めた。まだ脱衣所にいるはずなのに、灯籠の並んだ暗い石段を上がっていく、彩子の白い足が目に浮かんだ。

■白雪温泉

「しっかし、あんたたちも仲がいいっていうか、類は友を呼ぶっていうか、よくそんなに喋ってて、飽きないっていうか、話が尽きないわねぇ。ほんと、今さらながら感心するわ」


辻野と若菜の二人は、おしゃべり夫婦。若菜の母は、二人が負けずにしゃべりあうのを見て、そんなふうにいってあきれる。コンパや宴会があれば、盛り上げ役をする、その二人が結ばれたのだった。


青森の、冬の青荷温泉へきても、二人の話はとまらない。ところが隣室の少し年配の夫婦は、襖を隔てて、物音はするものの、しゃべる声が聞こえてこない。これでは、なんだか、こちらもしゃべるのに遠慮してしまう。


その疑問は、辻野が隣室の男性と温泉の中で一緒になったとき、晴れる。隣室の夫婦は、聾唖者だった。湯の中で、話しかけた辻野に、男は気の毒そうに身振りで、そのことを教えてくれた。


セリフのない二人のやりとりを作者は、巧妙に描写する。

男はそのまま、すっとガラス窓のほうへ視線を向ける。つられるように辻野もそちらへ視線を動かすと、すっとまた視線をこちらに戻してきた男が、いい、宿ですよね、とでも言うように辻野に笑いかけてくる。たしかにいい宿だ、と思い、改めてガラス窓の向うに見える月明かりを浴びた雪景色に目を向けた。その視線を追って、男の視線も窓の外へ向かう。その後、男は、じゃあ、お先に、とでも言うように、ちらっと辻野に微笑みかけて、熱い湯から立ち上がった。辻野も同じように微笑み返し、まだ、夜は長いですね、とでも言うように苦笑いした。それが伝わったのか伝わらなかったのか、男も同じように苦笑いを浮かべて脱衣所に向かった。


謎はとけた。それを妻にも伝えたい。温泉をあがって、吊り橋をわたって部屋へもどる。

忍び足で廊下を進み、そろそろっとふすまを開ける。枕から頭を落として熟睡している若菜の寝顔が、ストーブの炎でほんのり色づいている。
 辻野は起さないように静かに若菜の布団に入った。布団に入り、そのからだを抱きしめると、「う、うう」と低く唸った若菜が目を覚まし、「ん?」と自分を抱きしめる辻野の目を覗き込む。
「うわっ、からだ熱いよ。もしかして、お風呂入ってきた?」
 若菜が寝ぼけたような声で喋りだそうとする。辻野は、たまにはちょっと黙ってろよ、とでも言うように、その唇をやさしく押さえた。一瞬若菜はきょとんとしたがすぐに意味を解したらしく、うん、分かった、とでも言いたげにその目を閉じた。


おしゃべりの夫婦が、セリフのない会話を交わすところで、「白雪温泉」は終わる。

■ためらいの湯

妻のいる勇次と、夫のいる和美は、京都で落ち合う約束をする。


勇次は武蔵境、和美は三鷹に住んでいた。二人は、大学時代の同級生で、銀座で再会したとき、住んでいる家が意外に近いので、「今度食事でもしよう」と別れたのが、付き合うキッカケになった。


和美は先に出張の仕事を住ませて、祇園の「畑中」で勇次を待っている。勇次は新幹線で京都駅へ着く。京都駅からタクシーで「祇園 畑中」へ向かう。


すると携帯がなった。ドキっとする。妻からだ。


妻には出張だといってある。朝ギリギリの時間に、家を走って出かけたので、新幹線に間に合ったかの確認だった。用件がすんでも、妻はなかなか携帯を切らない。


「ほかに用がないんだったら切るぞ」と勇次がいう。

「分かった。ねぇ、京都も暑い?」
「暑いよ。なんで?」
「いや、なんかね、今日の東京、すごいよ」
「すごいって何が?」
「だから気温が」
「ああ。たしかに暑かったよな。東京駅のホームでうんざりした」
「でしょ? なんだかね、さっきテレビで言ってたんだけど、もしかしたら今日、観測史上初めて東京で四十度超えるかもって」


(略)


「まさか、そんなわけないだろ?」
「だってテレビでさっきそう言ってたんだもん」


それからも、妻の用らしい用のない話は続く。


タクシーの窓から、八坂神社の門が見えた。「もう本当に切るぞ」「わかった」。やっと携帯を切る。「祇園 畑中」は、八坂神社の門前にあった。


フロントで名前を告げ、美しい京都弁を話す仲居に連れられ、離れの部屋へ向かう。


「和美」と外から声をかけて、白木の門を開ける。部屋の中から返事はない。「お散歩にでも出たのでは」と仲居がいう。部屋はきれいに整頓されている。テーブルに、和美の携帯があった。外出するのに忘れていったのだろう。


携帯の下に一枚のメモがある。電話で、誰かと話していたのか、薄いエンピツで、「東京」「40℃」と書いてある。さっき交わした妻との会話が、蘇る。


和美はなかなか戻らなかった。携帯へメッセージをいれても、そばの和美の携帯が鳴るだけだ。


勇次は、浴衣に着替えて、大浴場に向かう。

 薄暗い階段を地下へ下りると、時間が中途半端なせいか、廊下の明かりが消されていた。いやな予感がしたが、とりあえず大浴場に向かった。一輪挿しの花が薄暗い廊下の隅に置いてある。
 廊下の突き当たりが大浴場だった。
 左に曲がれば女湯。右へ曲がれば男湯。ただ、その突き当たりに小さな看板が置いてある。勇次は看板の前で足を止めた。
「清掃中」
 看板にはそう書かれてあった。扉はすぐそこにあった。
 勇次は立ち止まったまま、目を閉じた。扉の向こうにどんな形の湯槽(ゆぶね)があるのか想像してみた。
 楕円形。円形。正方形。
 湯槽の形や大きさは次々と浮かんでくるのだが、どの湯槽にもお湯が入っていない。からっぽの湯殿ばかりが、勇次の頭の中で浮かんでは消えた。


「ためらいの湯」は、ここで終わってしまう。

■風来温泉

東北新幹線那須塩原駅に到着したのは、午後二時を回ったころだった。東京駅からはたかだか一時間ちょっとの道程で、発車間際に慌てて買った幕の内弁当は食べることができたが、一緒に買った週刊誌は半分ほどしか目を通すことができなかった。


これが書き出し。


恭介は、保険の外交を仕事にしている。自分にあっているのか、常に会社の1位か2位の成績をキープしていた。そうなると、常に数字が前月を上向いていないと気持ちが悪い。恭介は、休日なしに仕事に没頭する。すると、彼の給与明細は、ますます上向きになる。贅沢な生活ができた。


保険の外交は、やりがいを仕事の内容で実感するのがむずかしかった。だから、どうしても数字に目がいく。数字が上向けば、恭介の心は満たされた。しかし、恭介が満足すればするほど、恭介の友人は足が遠のいていく。


妻の真知子と那須の温泉を予約した。二人でいくはずだった。


それが、どうしたものか、前日帰宅した恭介に、真知子が、


「ねっ、明日からの温泉だけど、この次休みがとれたときにしない?」といい出した。

「この次の休みなんて、いつ取れるか分かんないよ」
「……それは分かってるけど」
「分かってるけど?」
 恭介はなかなか脱げない靴を、最後は蹴るようにして玄関にぶつけた。
「……なんで急にそんなことを言い出すんだよ? せっかく予約が取れたのに」
「……それは分かってるんだけど」
「だけど?」
 恭介は真知子の手をふり解くようにしてリビングに入った。
 最近、ときどき真知子が今のような口調になることがあった。直接、何かに不満を言葉にするのではなく、言葉にしないことで、自分が何か不満に思っているのだということを、暗に恭介に知らせてくるのだ。


真知子のはっきりしない態度に恭介は苛立つ。途中から、怒鳴り声になってしまうのを自分で抑えられない。

「行きたくないわけじゃないのよ。逆に、行きたいの……」
「だったら」
「ちょっと最後まで聞いてよ!」
「聞いてるだろ!」
「あのね、私は、恭介と一緒に温泉行きたいの。二人でのんびりしたいのよ」
「じゃあ、行って、のんびりすればいいだろ」
「この前の箱根だって、その前に行った草津だって、恭介、そこにいないじゃない」
「は?」
 一瞬、真知子が何かを言い間違えたのかと思った。そう思ってすぐ、いや、そうではなくて、真知子はきちんと間違えずに言ったのだと気づいた。
「あなたが仕事をがんばってるのは分かる。一生懸命、それこそ誰にも負けないようにがんばってるのは分かってる。でも、それってなんのため?」


(略)


一瞬、毎月末にもらう給与明細が目に浮かんだ。

「俺がそうやって必死で働いてるから、こんなマンションだって住めるんだろ! 飲みたくもない酒、こうやって毎晩飲んでるから、おまえに服も買ってやれるし、温泉にだって連れていけるんだろ! それをなんだよ? ……なんのためって、なんだよ?」
 酔っていたせいもあった。自分でも必要以上に大声を出していることに気づいていたが、いったん出した大声を普通の声に戻せなかった。


真知子は「怒鳴らないでよ」と繰り返すが、恭介は興奮していた。

「だったら、そんなにがんばらなくていいよ。もしもこのマンションや、私の服や、温泉のためだったら、そんなに仕事ばっかりしなくていい。毎月、毎月、所内の売上げ成績で一番にならなくてもいい」

(略)

「おまえは馬鹿にしてるんだよ。保険の勧誘なんて、こんな仕事している自分の旦那のこと、どっかで馬鹿にしてんだよ」
「し、してないよ」
「いや、してんだよ。おまえだけじゃない。みんな、そんな目で俺を見てんだよ。……どんな仕事してるのかって訊かれて、保険の勧誘だって答えたとき、みんながどんな顔をするかおまえ知ってるか? なぁ、どんな顔で、みんなが俺のこと見るか知ってるか?」
 いつの間にか、目の前に真知子の顔があった。知らず知らずに真知子の肩を掴み、その背中を壁に押しつけていた。今さら、そんなこと言うなよ。今さら、温泉に行かないなんて、今さら、行きたくなかったなんて、今さら、うれしくなかったなんて、今さら……。
「や、やめてよ」
 真知子の口が微かに動く。自分の妻を、旦那が殴るはずもないのに、真知子の目が怯えているように見える。


結局恭介は、那須へひとりでやってきた。


同じ旅館で、やはりひとりできている小さな化粧品会社を経営している女性と知り合う。二人は、フレンチレストランで食事をする。女性は、従業員は10人くらいしかいないが、まとめて保険の契約をしてもいい、といってくれる。ありがたい話だ。


レストランのあと、バーへ移る。酔いが回っている。レストランで飲んだ高いワインが効いたのかもしれない。今にも目を閉じてしまいそうだ。

恭介は慌てて椅子から立ち上がると、「す、すいません、ちょっと」と女に声をかけ、口を押さえるようにして店の外へ飛び出した。
「今さら、そんなことを言うな! 今さら、そんなことを言われて、俺はどうすればいいんだよ!」
 外に飛び出ると、昨夜、自分が叫んでいた声が蘇ってくる。真知子の髪を掴み、何度も背後の壁に、その頭を打ちつけた手の感触が戻ってくる。昨夜、慌てて家を飛び出したあと、自分がどこで何をやっていたのか覚えていない。気がつくと、郡山行きの新幹線に乗っていた。


真知子と二人で来るはずだったホテルに、恭介はひとりでいる。そしてどういうはずみか、化粧品会社の女社長と知り合い、団体保険の話をとりつけていた。


最後の描写、、、

 店の外へ飛び出した恭介は、石塀にすがりつくようにして何歩か進むと、そのまま地面にしゃがみ込んだ。吐き気がするのに、胃の中のものが出てこない。
 恭介はまた石塀にすがりつくようにして立ち上がった。目の前に真っ暗な森があった。夜空に枝を伸ばした欅(けやき)が、奥深くまで連なっている。
 そのとき、遠くで風が鳴った。昼間と同じように、まるで狼の遠吠えのような声が、欅の森の、もっと奥のほうから聞こえる。
 風がきた、と恭介は思った。向こうから風が追ってきたんだ、と。

■純情温泉

これは高校生の健二と真希が、親に内緒で黒川の温泉へいく話。二人の高校生の会話が生き生きしていて、とても愛らしい小説です。疲れたので、簡単に紹介しておきます。


健二と真希は、ふだん二階の健二の部屋で、セックスをしている。階下には健二の家族がいるので、いつ上がってくるかわからない。実際、1度、健二の父に見つかってしまったこともある。そのときは、なぜか、ベッドの中にいる真希よりも、ドアの前に立っている健二の父の方が照れて、あわてていたが……。そんなわけで、とにかく落ち着かなかった。


そこで、<温泉でゆっくりセックスをしたい>、という健二の<馬鹿な願い>を真希が受け入れる形で、温泉行きが実行される。


真希と静かな温泉にいると、健二は心から幸せだった。


真希の家は、真希の兄の浮気がバレてもめていた。兄のお嫁さんが逆上し、離婚をいい出し、今度は逆ギレした兄が、浮気した女と結婚する、といい出して収拾がつかない状態だ。


健二には、好きな女性と結婚して浮気をする男の気持ちが理解できない。すくなくも、俺には真希がいればいい、と思う。

熱い露天風呂に駆け込み、足で湯を蹴っているうちに、背後で真希が入ってくる水音がする。健二は五秒待ってふり返った。
 少しだけ白濁した湯の中に、まっしろな真希のからだが透けて見える。健二も自分の股間を隠すように、さっと熱い湯に身を沈めた。
「そっち行くぞ」と声をかけると、「そんなこと、わざわざ言わないでよ」と真希が照れる。
「だって、なんか照れるんだよ」
「私だってそうだよ」
 そう言い合いながらも、健二は湯の中をゆっくりと真希のほうへ近寄った。ぼんやりとしたランプが三つ置いてあるだけで、決して明るいとはいえないが、月の明かりが真希の顔や肩口を青白く染めている。
「さっき、浮気するとか、しないとか、そんな話しただろ」
 そう言いながら、健二は真希の隣りに浸かった。湯の中で手を伸ばすと、やわらかい真希の太ももに触れる。
「俺は、おまえでいいな」と健二は言った。
 そう言って、真希のからだを湯の中で抱くと、ふっと抱き上げて、自分の足で挟み込んだ。
「おまえでいいって、何よ、それ」
 真希がそう言いながらも、背中を健二の胸に押しつけてくる。そのあいだで熱くなっているのが、お湯なのか、自分の性器なのか分からない。
「ねぇ、おまえでいいって失礼じゃない?」
 真希が首をひねって改めて訊く。濡れたうなじから微かに甘いにおいがする。
「ごめん。そうじゃなくて、おまえでいい、じゃなくて、おまえがいいって言ったんだよ」
 健二がそう言うと、「ちょっと良くなった」と真希が笑う。
「いや、でもこれ冗談じゃなくて、おまえ以外の誰かと温泉に来たとして、今日みたいに楽しいとは思えないんだよな」と健二は言った。


男はみんな浮気をする、っていうけど俺はしない、と健二は思う。これ以上、楽しい思いを、真希以外の誰かと味わえるとは思えない。生きてきた17年のうちで一番好きな女だし、これから先も、こんなに誰かを好きになれるとは思えなかった。

この先、真希以外の女と、温泉に来ることなど想像もできなかった。この女とずっとこうやって一緒にいたい。たまに甘えてくるところも、たまに機嫌が悪くなり、面倒くさそうに返事をするところも、左目の下にある小さなほくろも、本人は気にしている八重歯も、全部ひっくるめて好きだった。星の瞬く山間の露天風呂で、この気持ちがいつかなくなるなんて、いくら考えても想像できなかった。


なんか、いいなあ。この感じ(笑)。