かぶとむし日記

映画、音楽、本の感想を中心に日記を更新しています。

里見弴を読み返して


このところ里見弴の『今年竹』(上下)と『極楽とんぼ』を読み返していました。


極楽とんぼ』は、里見版「好色一代男」です。


主人公・周三郎をとりまく環境などに、いまから見ると古く感じられるところがなくもありませんが、「女が好きで大好きで、まさにその道一筋!」……というやたら好色で呑気な主人公の生き方は、ヤボなわたしには羨ましくて(笑)。


というよりも、それを洒脱に書いてしまう里見とんという作家の甘いも辛いも知るに知ったうえでの人生観の柔らかさに共感。


しかしなあ、よくよく考えてみると、そんなことを改めて痛感するほど、わたしの周辺などには規制とルールが大好き!(笑)、そんなひとたちが多くいますね。


『今年竹』は、色町をめぐる恋愛小説。登場人物に幇間(ほうかん)が登場します。たいこもちですね。たいこもちのことを知ったのは、夏目漱石の「坊ちゃん」ですけど、小説に本物のたいこもちが登場してくるのを読んだのは、里見弴がはじめてです。


二人の主人公と、置屋の女将や芸者、たいこもちが繰り広げる絶妙な会話の応酬……里見弴が「小説家の小さん」と賞賛された所以でしょう。


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極楽とんぼ』の解説で、秋山駿は、こう書いています。

人間一般を知ることと、一人の人間を知ることでは、どちらが大切であるか、どちらがより深奥に達するか。


答えは決まっている。一人の人間を知ること。人間一般を知るより困難だが、真実へ到る道である。この一点を見失えば、作家が芸術家ではなくなる。


ところが、作家が社会の中で知識人の役割を演ずるようになって以来、人間一般への理解と知識から人間を描く、主人公を造形し登場人物間の葛藤を解析する、といった小説が多くなっていった。


こういう潮流への断乎たる敵手が、里見弴であった。


そうそう、里見弴の小説は、つねにある個人からはじまる。肩書きもさして重要でない。


秋山駿の解説から啓発されたので、ここにメモしておきます。