かぶとむし日記

映画、音楽、本の感想を中心に日記を更新しています。

川本三郎著『火の見櫓の上の海〜東京から房総へ』〜つげ義春「海辺の叙景」のこと


川本三郎著『火の見櫓の上の海〜東京から房総へ』は、文学などにあらわれた千葉県の房総を、川本三郎がひとり旅で歩き、その寂れた魅力を記した本だ。


川本三郎が、はじめて房総へ旅したきっかけは、つげ義春を読んで強く惹かれたからだという。川本三郎は、つげ義春のさまざまな作品の舞台に房総が描かれていることを知り、実際にその地へ足を運んでみる。


本のなかでも、つげ義春について触れた頁が多い。川本三郎は、「つげ義春は房総の風景の発見者だ」とも書いている。なにかと共感することの多い川本三郎つげ義春の大ファンだというのはうれしい。川本三郎の文章のなかに流れる<寂しさ>は、つげ義春に共通するものだ、とおもった。


★★★

つげ義春のマンガに「海辺の叙景」という叙情的な小品がある。昭和42年にマンガ誌『ガロ』に発表された。ちょうどつげ義春が大学生を中心に若い世代に熱心に読まれだしたころの作品である。私も大学4年のときに読んだ。


わたしの大好きな作品「海辺の叙景」について、川本三郎が書いている。「海辺の叙景」の舞台は、外房の大原。

つげ義春自身を思わせる若い男が「日陰のもやしみたいだから黒くなれ」と母親に誘われ、夏の海にやってくる。ある日、男は、海水浴場から少し離れた、切り立った断崖のような岬に散歩に出かける。そこで、東京から来たという若い女性と知り合う。二人は、にぎやかな海水浴場から離れ、ほとんど人の姿の見えない漁村を歩き、心を通わせていく。明日も会う約束をする。翌日雨が降る。海水浴場には人出がない。閑散とした浜辺で、二人は落ち合う。雨のなか、男は誰もいない海に入って、女の前でクロールで泳いで見せる。



雨の降る誰もいない海を、男は一生懸命沖に向かって泳いでいく。海辺に残った、傘をさした女が、泳ぐ男に向かって、声をかける。


「あなた、すてきよ……いい感じよ」。


これが2頁見開きの大きな画面で描かれ、「海辺の叙景」は終る。

それだけの小さな“夏の思い出”が淡々と描かれている。青春特有の絶叫も、血と汗と涙もない。どこか世の中の動きから取り残されたような寂しさと、それゆえの静寂がある。“こんな静かな青春もあるんだ”。当時、学生だった私はこのマンガに強く惹かれた。


恋愛ともいえない、男女の慎ましい触合い、その海辺の2日間を描いた「海辺の叙景」に、当時ぼくもすっかり魅了されてしまった。