あの「はだしのゲン」の著者の自伝です。これを読んで、マンガ「はだしのゲン」が、ほとんど事実そのままに近い作品だ、ということを知りました。
「はだしのゲン」は、マンガというわかりやすい表現だけに、世代を超えて、多くのひとに(外国に翻訳もされているようです)、原爆と戦争の恐ろしさを伝えているのではないか、とおもいます。
ふだん、あまり本など読まないうちの子どもたちも、中学生・高校生のころから、「はだしのゲン」を何度も読み返しているのを見かけました。ムリに押しつけたわけでもないので、明らかに作品の力がそうさせているのです。
★★★
文字で読む、著者の原爆体験は、やはりものすごくて、要約できません。マンガとは違う文字独特の詳細な生々しさもあります。
戦争や核がどれほど恐ろしいものか。
マンガ「はだしのゲン」もそうですが、この本を読めば、それが絶対繰返してはいけないことだとわかるのに、人類は戦争も、核をもつことも、いまだやめないですね。
それから、「はだしのゲン自伝」は、ただ被爆体験の恐ろしさを伝えた本ではありません。
戦争責任の問題、差別意識の問題、天皇制ファシズムの恐ろしさも、正面から語られています。「はだしのゲン」は少年向けのマンガなのに、奥に、著者の骨太の思想を感じたものでしたが、こちらは、少年向けという制約がありませんから、それがより明らかです。
★★★
1947(昭和22年)元旦の登校日を<私>はサボるつもりでいたが、誘いにきた級友から「登校すると紅白の餅がもらえる」と聞いて出かけていく。
食い物につられて登校してみると、全校生徒が校庭に整列させられ、校長が朝礼台に立ち、PTA役員や地域のボス、教師たちが前面に正装して並んでいた。
「一同、東向けー、東! 東京の皇居にいられる天皇陛下に向かって新年の挨拶! 一同最敬礼!」と号令がかかり、全校生徒が深々と頭を下げた。(略)
私は、この光景にあ然としたのだ。父が天皇制がいかに恐ろしいものかを説いていたことは聞かされていたし、天皇の命令で戦争をはじめ、その結果として原爆で焼きつくされ、多くの人間が殺され、いまも負傷してのたうちまわって呻いている被爆者が大勢いるというのに、まだ懲りずに天皇をありがたがり、宮城遥拝を生徒に押しつけて喜んでいるとは! 校長や教師、地域のボスや父兄の、戦争に対する意識の低さに驚いた。
同じ年(昭和22年)12月7日、天皇が、被爆地慰問のために広島へやってくる。学校は、生徒全員に半紙を配り、日の丸の旗をつくらせた。
私が旗を何に使うのかと聞くと、「明日は、天皇陛下様がわが広島市においでになる喜ばしい日だ! われわれ広島市民は、旗を振って心から歓迎するのだ!」と言った。
またもや私は、あ然とした。「なんとおめでたい教師と市民たちよ!」と呆れ返った。広島市を焼け野原にし、住む家を奪い、肉親を殺し、苦しみだけを押しつけて、みずからは安全なところでのうのうとしている張本人をありがたがって喜ぶとは、なんとバカな教師だと軽蔑した。新憲法が発布されて、教師はさかんに戦争放棄の第九条に触れ、日本は軍備を持たず武力を行使することなく、平和を求めて努力する新しい国に生まれ変わったと教えたが、やっていることは旧態然の天皇を神と崇めた軍国主義教育だった。
その日、著者は、「わが一家をめちゃくちゃにし、貧乏のどん底に叩き込んだ」張本人に誰が旗を振るか、とおもい、旗をもたずに登校する。
寒風が吹きつけるなか、手に手に自分の作った日の丸の旗を持った全校生徒が、相生橋のたもとの広島城がある基町側の川岸に整列させられた。天皇が乗った車が護国神社を参拝して通る道順であった。教師は緊張した表情で生徒のあいだを飛びまわり、整列を再度チェックしていた。私は、その姿を苦々しく見つめていた。そして、天皇という人間を考えた。周囲の瓦礫のなかには無数の人骨が埋まっている広島。その場所に、天皇はどんな気持ちでいるのだ。よくぞ平然と、この廃墟を見ていられるものだと呆れた。天皇は、人間の神経をもたない冷血人間だと思った。正常な人間ならば、自分の起した戦争のもたらした罪深さに、車に乗ってのうのうと広島見物ができるものではない、廃墟を正視できるものではないと思った。
遠方から「万歳! 万歳!」の歓声が響きわたってきて、天皇の乗った箱型車が現われた。教師は「万歳!」と叫んで旗を振るように号令をかけた。天皇が黒いコートに白いマフラーを首に巻き、ソフト帽を沿道の人びと振っている姿が車窓から見えた。私の目の前を車が通りすぎようとした瞬間、私は、一気に飛び出し、天皇の首に噛みついて食い殺してやりたい衝動を覚えた。寒風にさらされていながら、全身が燃えるように熱くなって、背中に汗がにじむほどに気持ちが高ぶった。「この野郎! よくも父と姉と弟を殺し、よくもわしらをどん底の生活に落としやがったな!」という怒りで全身が熱くなって震え、天皇を睨みつづけた。そして、足元の瓦の破片をチビた下駄で蹴り上げたら、タイヤに当たって跳ねた。
「君が代」や日の丸の復活を、著者はどのように感じているのか。
★★★
著者の父は、「この戦争は負ける。なんの意味もない。手柄を立てようとか、死んで国に奉公しようなどと絶対思うな」と、知人の出征に言葉をかけるような人だった。
やがて、その父は、<反戦主義者>で捕らえられ、1年半の留置所生活から戻ってくると、からだがボロボロになっていた。それでも、父は天皇制ファシズムの悪と、戦争の無意味さを主張しつづける。
一家は、非国民として学校や近所から冷たくあしらわれた。姉は、学校で、物がなくるなると、「お前が盗ったのだろう」と、裸にされて調べられた。非国民の家のものだから、疑われても当然だという理屈だった。
原爆の日、その姉は即死。さらに、父と弟は家屋の下敷きになり、生きたまま炎に焼かれて、死んだ。それを目前にしながら、木材がびくともせず、夫と息子を救えなかった著者の母は、生涯そのことで苦しんだ。
「お母ちゃん! 痛いようー! 痛いようー!」
「早よう、なんとかせえ」
という、炎で焼かれる前の、二人の声が<母>の耳を離れなかった。
そうした著者の体験をつぶさに説明しないと、著者の怒りがなんであるのか、うまく伝わらないかもしれない。
「はだしのゲン自伝」は、原爆のその後、戦後を<ゲン>がどのように生きたか、という後日談としても読める。