かぶとむし日記

映画、音楽、本の感想を中心に日記を更新しています。

「白樺派と漱石」(武者小路実篤記念館)〜調布を散歩する


5月8日(土曜日)、渋谷のbunkamuraで「レンピッカ展」を見る。


先日新しくできた「三菱一号館美術館」へ「マネ」を見にいったが、入口に列ができて30分待ち、そのときは、やむなく退散した。今回も並んでいるようだといやだな、とおもったが、すんなり見れた。


絵のことは何もわからない。美人や風景を見るのが好き、という程度で見ている。レンピッカの絵には、美しい女がたくさん登場してくるが、画家本人もかなりの美人で、映画スターのように着飾ったレンピッカの写真が何枚も陳列されていた。



渋谷から新宿へもどり、京王線武者小路実篤記念館のある仙川へいく。tougyouさんから教えていただいた企画展「白樺派漱石」を見るため。


土曜日で武者小路実篤旧邸のなかも見学できた。広い庭が公園になっているのでそこをぶらぶらしながら、道路下のトンネルをくぐると、「武者小路実篤記念館」がある。入館料は200円と安い。記念館ができてから、何度も来ている。


白樺派漱石」はいい企画展だった。白樺派の人たち(実篤、直哉、木下利玄、里見弴など)は、作家としてスタートする以前、日本の作家では漱石を尊敬していた。実篤は、「日本で先生と呼んでもいい唯一のひと」というような言い方をしている。


しかし、白樺の人たちが漱石に言及した文章はあちこち散らかっているので、集めるとなると大変だ。ぼく自身でいえば、比較的漱石や白樺のひとたちのものを読んでいる方だが、それがどこに書いてあったものか、忘れている。


そういった散らばっている文章が、きちんと整理されていた。ああここで読んだのだなあ、と自分のなかでも確認できて、うれしい企画展だった。


以下、記念館で販売していたパンフレットからの引用で、白樺派漱石の関係を眺めると、、、



学生時代、志賀直哉は、漱石の大ファンだった。

「坊ちゃん」が出た時、志賀は誰つかまへてもその面白さを吹聴して、愛読者をふやすのに熱心だったが、僕も志賀からホトトギスを貸してもらってよんでおどろいた。(中略)一作一作、出るものをまちかねて出てゐる雑誌を買って来て読んだ。


武者小路実篤「夏目さん」『大調和』昭和3年10月号)


はじめて知ることもあった。あまり大学の講義に出ない直哉が漱石の講義を受講していたことは知っていた。しかし、漱石の講演で、活字で読むことができる「創作家の態度」と「文芸の哲学的基礎」を実際に聴きにいっているのは知らなかった。


どちらも、直哉が通う東京帝国大学でおこなわれたものではないので、わざわざ聴くために足を運んだのだろう。


志賀直哉は、「創作家の態度」を聴いた日の日記(明治41年2月15日)に、「中でも夏目さん最も面白く有益なりき」と簡潔に記している。



武者小路実篤は、雑誌「白樺」の創刊号に、「『それから』に就いて」を書いている。内容は、「それから」に90%の共感を寄せながらも、<「それから」」は、自然の大河ではなく、人工的な運河だ>と、作品が都合よくできすぎていることに10%の不満を述べている。


同時代の批評として、いま読んでも優れた評論だと、ぼくはおもっている。

彼は夏目さんを日本で一番尊敬していた。そして多くの批評家が夏目さんの悪口を云ってゐるのに腹を立ててゐたので、「白樺」の第一号に夏目さんの「それから」に就いて批評をかくことにした。(中略)ともかく僕は「それから」を愛読し、代助の主観に多くの同感を感じた。又「それから」にあつかわれた自然と社会の関係なぞにも批評したい興味を感じた。


武者小路実篤「或る男」124章)


「白樺」創刊号を漱石に送ると、丁重な返事が届いた。無名な青年にもきちんと接する漱石らしい律儀さが感じられる。

拝啓 白樺一号御恵送にあづかり拝受。巻頭の「それから」評未だ熟読不致候へども直ちには一寸眼を通し候。拙作に対しあれ程の御注意を御払い被下候のみならず、多大の頁を御割愛被下候事感佩(かんぱい)の至に候。深く御好意を謝し申候。御批評の内容は未だ熟読を経ざる事故何とも申上かね候へども所々肯綮(こうけい)に当り候所も多き様に存候。「それから」のとめ方の御弁護もあの通りの愚見にて候ひし、先は御礼迄 草々


夏目漱石より武者小路実篤宛書簡 明治43年3月30日)


ちなみに、武者小路実篤の『或る男』によれば、森鴎外に送った「白樺」創刊号は、古本屋に出ているのを、仲間の誰かが見つけて、それでよけいに鴎外を嫌いになった、というエピソードもある。



木下利玄の日記は、漱石に頻繁に言及している。これは、はじめて読んだ。今回の企画展の大きな収穫だった。

漱石の坊ちゃんを読み了った。只ユーモアに富めるのみならず、当世の諷せる作である。宴会の場の如きは席上の光景目に見る如く、なぐるところは胸がすく。坊ちゃんの如き人ハ(原文のママ)得難い好人物である。山嵐も亦坊ちゃんと共に同情すべき男である。読み了ると何だか坊ちゃん山嵐など云う友に別れたやうな心地がして寂しい感がした。自分も坊ちゃんのやうな人でありたい。


(木下利玄の日記「明治39(1906)年4月18日)


さらに、利玄の日記は、漱石の講義の感想も記録している。全部書きとめたいけど、抜粋すると、、、

■明治39(1906)年

  • 9月25日「今朝夏目漱石オセロの講義あり、声小さく冷淡な講義なれど時々奇抜なことを云ふ」
  • 10月15日「夏目さんの講義ハ単に面白いばかりでなく時にカルチアの為になる有益な話をせられて其の滑稽趣味の中に又大に真面目な所ありて実にいい」
  • 10月22日「夏目先生も今日は因果的関係について面白い有益な話があって他の帳面へ要領をかいて置いた。その他本郷座あたりの所謂正劇なるものをけなしホトトギスの狐の写生文にも少しケチをつけられた。卓見であった」
  • 10月23日「夏目さん今日からマーチャントオブベニス。その前に批評の創作に対する価値を論ぜられた。実に有益な事を語られる。これからは出てお話をなるたけ書き取るやうにしよう」


(木下利玄の日記から)



白樺派漱石の蜜月期は、白樺発刊前から彼らが新進作家として世に出るころまでだったかもしれない。人間漱石への敬愛は、終始変らなかったが、作家としての考えや人生観・社会観には、相違もはっきりしてくる。


漱石の晩年の作は、滑稽味が希薄になって、懐疑的に人生や社会を眺める作品が多くなる。自己に忠実になって、個性を深めていく、という白樺の基本的な考えと、あわないところも出てきた。


この企画展は、そのことまでとらえている。

「安井さんなんかに云はせると、ロダンが抑々(そもそも)山師で、白樺の人達に騒がれる、ゴーガン、ゴッホなどは云ふに足らんと云ふ事です。其処へ行くと謙遜なセザンヌの方が何んなに宜いか解らないと・・・云ひますね」


夏目漱石「猫の話絵の話」『報知新聞』大正4年8月25日、26日)


武者小路実篤は『明暗』についていう。

今度の夏目さんの小説にも何かがあるやうに香はせておいて中々正体を見ない技巧が弄されてゐるやうに思ふ。自分にはそれがあまり気に入らない。(中略)
 好奇心のつり方が主として外面的出来事だから、なほ正体を早く見せる方がいいと思ふ。それにその見せない用心がどうも自然でない。より意識的だ。わざわざ見せないやうに作者が注意してゐるのが目につく。


武者小路実篤「今度の夏目さんの小説には」『文芸雑誌』大正5年10月号)


「則天去私」についての武者小路の感想。

夏目さんの「則天去私」と云ふ言葉は、その精神をすっかり聞かないのでよくわかりませんが、聞いたにしろ少くも全然とは賛成が出来なかったと思ひます。自分を生かし切って自然と合体すると云ふのが自分の理想です。「去私」と云ふ言葉は(中略)自分には賛成出来ません。(中略)自分なら自分を生かし切れ、最も有益に、永遠的に生かし切れ、「則天」は自づから得られると云ひたいのです。


武者小路実篤「手紙」『青空』大正6年1月号)



しかし、漱石が亡くなると、白樺のひとたちは、思いのほか、自分たちが漱石を慕っていたことを自覚する。


実篤は、自分宛の漱石の手紙を20万円出して買い戻し、漱石の絵を愛蔵した。


志賀直哉は、次のような回想をしている。

然し私達は(白樺の仲間のこと)元気一杯で、可恐者(こわいもの)知らずであった。敬意を持ってゐたのは夏目漱石位のもので、鴎外でも藤村でも秋声でも眼中になく、先輩といふものは一人も作らず、原稿も仲間以外には誰にも見せた事はなかった。


志賀直哉 細川書店版「網走まで」あとがき。昭和22年7月)



「実篤記念館」の企画展がよかったので、予想外に時間を使ってしまった。


午後3時半ころになっていたので、次に神代植物公園へ行く予定をどうするか迷ったが、やっぱり行くことにする。


つつじヶ丘駅まで10分ほど住宅街を歩いた。つつじヶ丘駅から深大寺行きのバスに乗る。


神代植物公園で、ツツジ、バラ、しゃくやくなど見て歩く。


深大寺で、そばを食べながら一杯やろうか、とおもっていたが、その時間はなかった。


ちょうど来たバスが吉祥寺行きだったので、乗る。吉祥寺には居酒屋がたくさんある。


吉祥寺駅に近い「ハーモニカ横丁」で、立呑みなどの居酒屋を3軒ハシゴして、川越へ帰った。