かぶとむし日記

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大山へ向かう峠茶屋のシーン〜志賀直哉『暗夜行路』より

暗夜行路 (新潮文庫)

暗夜行路 (新潮文庫)




わたしは、志賀直哉の『暗夜行路』は、全編を貫くテーマや思想よりも、細部で光るなにげない描写が好きだ。『暗夜行路』をしかつめらしく読む必要はなく、作者の見つめる視線の先を、いしょに楽しめばいいのだ、とおもう。


『暗夜行路』後編で、謙作と車夫が大山の連浄院へ向かうシーンもいい。高原の花々が咲く細い道を、謙作は人力車で登っていく。


こんな描写がある。

放牧の牛や馬が、草を食うのを止め、立ってこっちを眺めていた。ところどころに大きな松の木があり、高い枝で蝉が力一杯啼いていた。*1


走る人力車に興味をもったのか、草を食う牛や馬が食べるのをやめて、<こっちを眺めていた>というのは、高原の、のどかな夏の風景のイメージをふくらませてくれる。



茶屋へ寄ると、謙作は車夫に<めしと酒>を注文し、あまり飲めない自分は、<菓子とサイダー>を頼む。


六十歳くらいの<ばあさん>が、茶屋をきりもりしている。


そこには、八十近い白髪(しらが)の老人もいた。老人は、「立てた長い脛を両手で抱くようにして」、峠から下に広がる海を、黙って眺めている。

広い裾野から遠く中の海、夜見ケ浜、美保の関、更にそと海まで眺められる景色を前に、静かに腰を下ろしている。老人は謙作達が入ってきたのも気付かぬ風で、遠くを眺めていた。


『暗夜行路』には、寺の軒先で小便を垂れ流しながら寝ている乞食や、ほとんど外界に関心をもたないで風景を眺めているこのような老人が、描写される。そして、謙作の彼らをみつめる眼は優しく、一種の共感すら含んでいるようにかんじられる。


謙作は、サイダーで暑さをしのぎながら、老人が見ている遠い景色を眺める。

この老人にすればこれは毎日見ている景色であろう。それを厭かずこうして眺めている。一体この老人は何を考えているのだろう。勿論将来を考えているのではない。又恐らく現在を考えているのでもあるまい。長い一生、その長い過去の色々な出来事を老人は憶い出しているのではあるまいか。


否、それさえ恐らく、今は忘れているだろう。老人は山の老樹のように、或いは苔むした岩のように、この景色の前に只そこに置かれてあるのだ。そしてもし何か考えているとすれば、それは樹が考え、岩が考える程度にしか考えていないだろう。


謙作はそんな気がした。彼にはその静寂な感じが羨ましかった。


つげ義春の作品「峠の犬」では、人になつかない野良犬が、峠から、ひとり遠い景色を眺めている意味深いシーンがある。


そこに、つげは義春は、「この犬は何を考えているのだろう。犬には犬の考えがあるのでしょうか」という意味の文章を、吹き出しに書いている。


このマンガを見たときも、わたしは、『暗夜行路』のこの老人を連想した。



そのすぐあとに、仔猫の描写が出てくる。動物を描くとき、志賀のペンはひときわ冴え、読んでいて、おもわず頬がゆるんでしまう。

老人のいる左手の壁に寄せて、米俵が幾つか積み上げてあった。その後ろで先刻(さっき)から何かゴソゴソ音がしていたが、不意に一匹の仔猫がそこから米俵の上へ現れた。


仔猫は、両方の耳を前へ向け、熱心に今自分の飛出して来たところを覗き込んでいた。そして身体は凝っとしているが、長い尾だけが別の生き物のように勝手に動いていた。すると、下からも丸い猫の手がちょいちょい見えた。


このあと、車夫と茶屋のばあさんの、猫についてののんびりした話が続く。そして、そのあとで、再び二匹の仔猫と、さらに親猫が登場する。

老人は置物のように尚皆の方へ背を向けたままでいた。二匹の仔猫は俵の上で上になり下になりふざけていたが、そのうち誤って一匹が俵から下へ落ちた。落ちた仔猫は急に興ざめのしたキョトンとした様子で哀れっぽい声で二声三声啼いた。どこからか急いで親猫が出てきて仔猫の身体を嘗めてやった。


ごく自然に、老人の静寂さと、仔猫たちの生き生きした言動が対比されている。


この峠の茶屋*2でのシーンは、志賀直哉の名描写のひとつだ、とおもう。

*1:読みやすいように、引用は字句を修正し、段落をあけております。

*2:正確には、分けの茶屋。