かぶとむし日記

映画、音楽、本の感想を中心に日記を更新しています。

今村太平『志賀直哉との対話』(柳田知常著『志賀直哉の作品』から)


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柳田知常著『志賀直哉の作品』(昭和57年1月刊)がおもしろい。この本は、何かの自論を導き出すために志賀直哉の作品を分析するのではなくて、作品を味読するのが主眼のようで、そこからムリに新たな結論を出そうとしていない。


短編「ある一頁」について書かれた章では、今村太平著『志賀直哉との対話』(昭和45年10月刊)について触れているが、この対談はむかし愛読したことがあって、懐かしかった。


今回は、柳田知常著『志賀直哉の作品』に導かれながら、今村太平と志賀直哉のことについて記録しておく。



「ある一頁」は、志賀直哉明治44年5月、同人雑誌「白樺」に発表した短編小説だ。


この短編は、志賀直哉の作品のなかで、ずっと軽視されてきた。ところがこの半ば忘れられていた短編に注目したのが、映画評論家の今村太平である。


文学畑ではなく、映画人がその新鮮さに興味をもったというのが、この短編の特徴をよくあらわしている。



「ある一頁」は、主人公(ほとんど志賀自身に重なる)が、家族との衝突(大好きな祖母と?)や、ひっきりなしの友人との往来に疲れ、京都でひとり暮らしをしようと出かけるが、体調も気分も優れず、一晩も泊まらず東京へ帰ってくる、という話*1


そこに、なにもテーマらしいテーマもなく、ただ体調の悪い主人公が、走る人力車のなかから見る京都の景色や人が次々と描写されていく。その流れるような描写の映像性に、映画評論家の今村太平が、注目したのだった。


志賀直哉の小説を、優れた記録映画のようだ、という今村太平の『志賀直哉論』が雑誌「思想の科学」に連載されると*2志賀直哉本人もそれを読んで興味を示し、その後二人の対談が実現する。



今村太平著『志賀直哉との対話』は、テープから文章を起こして、それをほとんど修正していないため、志賀直哉の肉声の感じが出ていて、それもこの本の魅力になっている。


柳田氏の本から孫引きで、その一部をここへ写しておこう。


こんな感じ・・・だ。

今村奈良時代の小品で「池の縁」(昭和8年)なんてのも面白いですね。
志賀:(笑い出して)面白い。
今村:子供との会話。
志賀:ああいうのね。あれだとか熱海で書いたあの「朝顔」(昭和28年)だとか、ああいうの全然、何かに出すっていう考えなしに書いたの。割にそれが自分では気に入っているものね。
今村:「或る一頁」もそうですね。
志賀:「或る一頁」も、まあそうね。
今村:あれ、まるでシナリオみたいですよね。
志賀:ああ、そう。
今村:文章は過去形で書かれていますけどね、あれもう現在進行形にしちゃったらね。三条大橋を渡って「芸者屋、料理屋、鳥屋の多い町に出た」ってのを「出る」にしたり、そこで「日傘をつぼめて美しくない芸者が鳥屋ののれんをくぐった」というのを「くぐる」にしたりして現在進行形に直しちゃったらシナリオですね。
志賀:そんなとこあったか知ら。
今村:ええ、新京極をぶらついて河向うへ渡るんですよ。
志賀:ああ、あ、そう。
今村:それから何か加茂川べりの桟敷の下座敷で3、4人の男が碁を打っているのをチラッと見る。
志賀:(ちょっと楽しそうに)うん、うん。
今村:ね。そういうのを現在進行形にすればもう全然・・・
志賀:そうね。そうかも知れない。只見たことを、もうそのまンまダラダラ書いたんだから。
今村:まあ志賀さん御自身はダラダラ書いたようなつもりでしょうが、あれはやっぱりそのカッティングの利いた文章ですよね。それがダラダラ書いているようで、非常に鋭いショットの連続になっているわけで・・・
志賀:それとね。やっぱり自分でちょっと興味をもったものは割に人に通じるもンね。自分にはヒョッと見てた感じでも妙にこう鮮明なことはそのまま書いても割に読者に伝わって行くもンね*3。発表した時代から暫くしてまあ少なくも二度読んでくれるような人だったら、そういうのをまた言ってくれる。案外通じるもんだと思った。


志賀直哉は、楽しそうだ。


自身の思惑とは無関係なところで論じられる幾多の志賀直哉論に嫌気がさしていた志賀には、こういう、自分で読んだ感想を率直に語る今村太平が、とても好ましく感じられたようだ。

*1:志賀直哉は、それから3年後の大正元年(明治45年)、このときと同じ理由で京都よりもっと離れた尾道でひとり暮らすことになる。今度の家族の衝突の相手は、父だった。

*2:今村太平著『志賀直哉論』が筑摩書房から書籍として刊行されるのは、『志賀直哉との対話』から3年後の、昭和48年になる。

*3:本人は簡単にいっているけれど、わたしはそれが志賀直哉の誰も真似ることのできない稀有な才能なのだ、とおもう。