かぶとむし日記

映画、音楽、本の感想を中心に日記を更新しています。

漱石の生誕と終焉の地を訪ねてみる(10月12日)


広岡祐(ひろおか・ゆう)著『漱石と歩く、明治の東京』(祥伝社黄金文庫)を読んでいたら、ゆかりの地を歩いてみたくなった。とりあえず、漱石生誕の地と終焉の地がある、東西線早稲田駅周辺へ。


漱石と歩く、明治の東京 (祥伝社黄金文庫)

漱石と歩く、明治の東京 (祥伝社黄金文庫)


川越から東武東上線→池袋からJR→高田馬場東西線乗換え→早稲田駅下車。


漱石と歩く、明治の東京』の地図を参考にして探す。漱石生誕の地は、早稲田駅から夏目坂を上るすぐのところにある。「やよい軒」のそばに、石碑が建っていた。



夏目坂を上る。漱石終焉の地は、いま漱石公園になっている、と本にあるけれど、本の粗い縮刷の地図からは、その場所がわかりにくい。


おおざっぱに夏目坂から、二又の喜久井町の交差点を左に折れ、さらに適当なところで路地を左に曲がっていくと、「漱石公園」に突き当たった。入口のところに、夏目漱石の胸像がある。



この終焉の地には、明治40(1907)年、40歳で転居し、大正5(1916)年、49歳胃潰瘍で亡くなるまで住んでいる。老成した大家の趣きがある夏目漱石だけれど、いまの感覚でいえば、49歳とは信じられないくらい若い。


明治40年は、漱石が教員を辞め、朝日新聞にはいった年でもある。小説家として本腰をいれ、『虞美人草』から遺作『明暗』までが、この「漱石山房」といわれる終焉の地で書かれたことになる(いただいた小冊子を参照)。



園内が工事中なのは、漱石記念館が2017年9月にできるからだと、「道草庵(みちくさあん)」(案内所になっていて、ここで資料をもらえる)のひとに教えてもらう。しばらく雑談して、夏目坂を駅のほうへ引き返す。漱石が幼少のころ、淋しく鐘の音を聞いたという誓閑寺へ寄ってみた。境内の外から、いまは使われていない梵鐘が見える。



夏目漱石は、誓閑寺について次のように書いている。『漱石と歩く、明治の東京』からの孫引きで恐縮だけれど、、、

半町程先に西閑寺(誓閑寺のこと)という寺の門が小高く見えた。赤く塗られた門の後は、深い竹藪一面におおわれているので、中にどんなものがあるか通りからは全く見えなかったが、その奥でする朝晩のお勤(おつとめ)の鉦の音は、今でも私の耳に残っている。ことに霧の多い秋から木枯らしの吹く冬へ掛けて、カンカンとなる西閑寺の鉦の音は、何時でも私の心に悲しくて冷たい或物(あるもの)を叩き込むように小さい私の気分を寒くした。


(『硝子戸の中』より。一部変換しにくい漢字をひらがなで表記しました)


早稲田駅前交差点のそばには、漱石の精神状態がひどくなると、鏡子夫人が、病気が治まるようお祈りにいったという「穴八幡宮」があったので、いってみる。



きょう予定していたミニ散歩はここまで。どこかで、お昼とアルコールを補給したい。近くの本屋さんに寄ると、シンコーミュージックの1冊まるごとキース・リチャーズを特集した雑誌があったので、購入。


東西線早稲田駅から高田馬場へ引き返す。駅周辺をぶらぶらしていたら、飲食店が並んでいる通りに、地下でやっている居酒屋があった。


漱石公園でもらった小冊子を眺めながら、ホッピーで喉を潤す。漱石記念館が完成したら、もう一度訪ねたい。