ビートルズから受けた影響を、どんなふうに説明したらいいのだろう。基本的な価値観を、相手とわたしが共有してないとき⋯。
食堂などのお店で、ビートルズが店内のBGMでちいさく流れていることがある。はじめ、知り合いに会ったようなうれしさがあるけれど、すぐ、いまビートルズってこういうふうに消化されているんだなあ、とおもう。角が削れて無害なものとして受容されている。
ビートルズを聴くことが「抵抗」だったり「反抗」だったりした、そんな時代があったことをうまく言葉にできない。
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そんなとき、里中哲彦著『教養として学んでおきたいビートルズ』(マイナビ新書)という本のなかに、島村洋子さんの一文をみつけた。
「教養として学んでおきたい」なんて、学習参考書みたいじゃないか⋯。「ビートルズ」に「教養」は似合わないゾ。
と、ブツブツいいながら読み始めたら、島村洋子(作家)さんの文に、うなずいていた。
(島村さんの原文そのままではなく、著者である里中哲彦氏の要約による引用のようです)
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里中哲彦氏に感謝して、孫引用させてもらいます。
島村洋子「ビートルズに殴られなかったら」
ビートルズが存在しなかったら、断言してもいいけれど、いまごろ私は二児の母になっている。たぶんふつうに大学を卒業し、何年か会社に勤めたあと、そこで恋愛結婚をして、テレビで流れている情報はすべて真実だと信じ込んで暮らしている。いま流行っている曲がいちばんいい曲で、みんなが着ている服がおしゃれだと信じ、相手の意見にはほとんど逆らわず、病気をせずに長生きをして、家族が仲よく過ごせたら、人生は上出来だと思っているはずだ。肩書きの立派な人が偉いと思い、偏差値の高い学校を出た人を頭がいいとみなし、しょせんこの世は金持ちになれば勝ちだと思い込み、みんなが持っているものを持っていれば幸福だと思っているにちがいない。
ビートルズは私を待ち伏せしていた。それまでぼーっと歩いていた私の後頭部をいきなり強打したのだ。忘れもしない十二歳の春だった。以来、私はビートルズに殴られっぱなしである。ものごとを損得勘定だけで判断しようとすると、ジョンに「おまえはアホか」といわれて、すぐさま反省する。ビートルズに「あいつ、いかすやつだな」と思われる人間になるのが私の目標である。「ビートルズに殴られなかったら、絶対になれなかった人間」になるべく、これからも歩き続けようと思っている。
著者の里中哲彦氏は、そのあとで次のように補足している。
大いに共感を呼ぶエッセイである。「ビートルズが自分の人生のなかでどのような意味をもったのか」をつづった文章は多いが、なかでもこれは出色である。
同感!!
ビートルズのどこがどう凄いのか。
「その音楽を気にいった」という以上の深い影響ってなんなのか、その答えのひとつを島村洋子さんが、簡潔に説明している。
さらにその詳細を知りたければ、里中哲彦氏の本を全部読んだらいい。ポイントをおさえた入門書で、おもしろかったし、わかりやすい。
それに学習参考書の臭みは、感じなかったし(笑)。
タイトルの命名は、担当した編集者の発案にちがいない、とおもうことにした(笑)。
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ビートルズ「リヴォルーション」