Sさんは「明治神宮駅前」へ、二十代で勤めた職場時代の友人(N子さん)と会いにいく。
わたしは「テアトル新宿」へ、中村文則原作、奥山和由監督『奇麗な、悪』を見にいく。
「テアトル新宿」は、東京にアパートがあるころはよく見にきたちいさな映画館。ここで見るときは、少し早めに来て、「テアトル新宿」の靖国通り向かいにある喫茶店(ルノアール)で、上映開始までの時間待ちをする。
この日も「ルノアール」へ寄る。
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『奇麗な、悪』は、瀧内公美のひとり芝居。わたしは一作見るごとに彼女のファンになっている。
先日見たアメリカ映画『ドライブ・イン・マンハッタン』は、初老のタクシー運転手と30歳代の女性客ふたりだけの芝居だった。場所はタクシー車内のみ。その濃密な空間でのやりとりを見る映画だった。
『奇麗な、悪』も、出演は女性がひとりだけ。場所もひとつの部屋のなか。濃密さでは、『ドライブ・イン・マンハッタン』をしのぐ。
精神科医を相手に、女性はひたすらしゃべる⋯。
精神科医は声も姿も登場しない。部屋にある人形が無言のまま女性のおしゃべりを受ける。
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大きなスクリーンで、女優ひとりが演技する。観客の熟視に耐える演技力と天性の魅力がなくてはならないし、若すぎてはぴったりこない。
瀧内公美しか適役はないかもしれない。
街の人混みのなかを、まるで糸の切れた風船のように危うげに歩くひとりの女。やがて古びた洋館にたどり着いた彼女は、そこが以前に何回か診てもらったことのある精神科医院であることを思い出す。ひと気のない洋館の中に吸い込まれるように足を踏み入れ、以前と同じように患者用のリクライニングチェアに身を横たえた女は、自身の悲惨な人生について語りはじめる。
(「映画.com」から)
内容は、「懺悔録」。女性が語る「転落の人生」。
いったん転び始めると、どうしようもない男があとからあとから現れて、さらに深い奈落の底へ突き落とされる⋯⋯。
「善意」や「救い」のはいる余地がない。卑猥で無惨。
物語は、わたしの想像を超える。とはいえ、むかし何かで読んだか見たかしたような気がする。
若いころはこうした作品に刺激を受けたし、性的な好奇心もあった。
でもいま、正直なところ話の展開に「ドキドキハラハラ」を感じない。翻訳小説でも読んでいるような一定の距離感がある。
瀧内公美の魅惑的な「ひとり語り」をたのしむ──わたしには、そういう映画だった。
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原作のタイトルは「火」(文庫本『銃』に収録)。作者の中村文則氏は、「あとがき」でこう書いている。
「押し付けられるような明るさや、大多数が喜びそうに計算されたものが多い中、文学においてこういうものも必要なんじゃないか、と作者としては勝手に思っている」
映画に「救い」とか「希望」とか──つまりは「ハッピイエンド」を求める人には不向きかもしれない。
でも「胸熱(ムネアツ)な作品」に食傷したとき、わたしはこういう映画や小説が、無性に欲しくなるときがある。