
土井裕泰監督『平場の月』。
11月16日日曜日。
Sさんの運転で、「ウニクス南古谷」へ、土井裕泰監督の『平場の月』を見にいく。土曜、日曜と映画巡りの週末。
★
【予告編】
【解説】
大人の男女の心の機微を繊細に描き、第32回山本周五郎賞を受賞した朝倉かすみの同名恋愛小説を、堺雅人主演、井川遥共演で映画化。中学時代の初恋の相手同士が時を経て再会し、ひかれ合っていく姿を描く。(「映画.com」より)
★
2019年に原作を読んでいたが細部の内容を忘れていた。映画も本もメモや備忘録を残さないとどんどん忘れていく。
最初は見るかどうか迷っていた──というのは、予告編で、堺雅人が顔を歪めて泣くシーンがあって、そういう「感情過多」の予告編を見ると「うぇ、もういいや」と思ってしまう。『平場の月』の予告編もそういう印象だった。
であるけれど、、、
その後つるひめさんとコメント交換したりして、原作の記憶がよみがえるにつけ、やっぱり見ておきたいと思った。
映画の舞台がわたしの住んでいるところの沿線(東武東上線)の朝霞市であるし。去年平林寺の紅葉を見に行ったときの帰り、朝霞台駅の西口でラーメン食べたし。
★
映画の主人公は50歳という設定になっている。学校を卒業して地元をいったんは離れても、転職とか離婚とかあってもどってきた。それから朝霞市(埼玉県)周辺で働いている。
男性の青砥健将は地元の印刷工場で、女性の須藤葉子は地元病院の売店で働いている。
須藤葉子の働いている病院の売店で二人は出会うが、地元に住んで地元で働いている同士であれば、バッタリ会ってもおかしくない。偶然性が少ないほどそのドラマのリアリズムが増す。
事実、青砥は、ほかの同級生たちともよく顔をあわせて、地元の居酒屋で飲んだりしている。そういうシーンも多い。
この映画でわたしが一番好きなのは、地元に住む人々(一時は学校や仕事の違いで離れても)のリアルな生活感かもしれない。
例えば、青砥健将と須藤葉子は互いを名前ではなく「青砥」「須藤」と姓の呼び捨てで呼びあう。恋人同士になってもずっとそう。新鮮に響く。
もうひとつ、同級生たちは須藤のことを「ハコ、ハコ」と呼ぶ。なんだろうと思っていたら須藤の下の名前は「葉子」で、それを「ハコ」と呼んでいるのだとわかった。あっ、そうか──とてもドラマの細部にリアルな効果がある。
地元に住んで同じ小・中学校に通ったという交友関係の設定が生きている。原作のうまさかもしれないけど。
★
最後に「なっとくがいかない」と感じたところ。
そもそも「余命◯年」ものは好きでない。安易に感じられてならない。そんなことで泣かそうと思ってもそうはいかないぞ──って反抗したくなる(笑)。
むかしコクって振られた同級生と50歳で再会し、恋愛する。急激にではなく、人生の紆余曲折を重ねてきた男女らしくゆっくりと想いを深めていく。
そこまでは「いいなあ」と思いながら見る。
が、須藤葉子に「がん」が発見される。
それからだんだん「余命◯年もの」になるが、淡々と進んでいくのでいい。
青砥は、病気がどうであれ、須藤とずっと暮らそうと心に決める。
ところが、、、
須藤葉子は、青砥に「もう会いたくない」と、突然絶縁を突きつける。
「なんで?」と青砥は思う。
須藤葉子は、がんの治療を受けている。人工肛門をつけている。青砥が会う直前に「がんの定期検診」を受けている。
その直後の「絶縁宣言」である。
青砥は「定期検診」に、須藤の絶縁宣言の理由があると思わなかったのだろうか?
──1年後に会う約束をして、青砥健将と須藤葉子は別れてしまう。
青砥は、もう少し須藤葉子の言葉に何か裏がないか疑ってもよかった。須藤のこれまでの愛情を思えば、こんな突然の絶縁などあり得ない、と思わなかったのだろうか。
青砥は「1年後まで会わない」という須藤との約束をきっちり守る⋯⋯。
この映画に疑問がわく一番はその結末。唐突で、自然な川の流れが不意に止まってしまった。
原作では「絶縁」の経過をどう描いていたのだろうか。
それを確かめに、Sさんはもう一度朝倉かすみの原作(同タイトル)を読んでみる、といった。
★
このラストシーンについて、つるひめさんも書いている。
わたしは主に青砥の「鈍感」に不満を書いたけれど、ひめは少し違う視点から二人の「絶縁」について感想を書いている。
もっと映画の全編を知りたい方は、「ひめ」のブログへ──。
https://tsuruhime-beat.hatenablog.com/entry/2025/11/18/205709