かぶとむし日記

映画、音楽、本の感想を中心に日記を更新しています。

続・サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の魅力について(笑)

ぼくが3度くらい読みながら、その魅力が理解しきれずにいた『ライ麦畑』について、オリーブマニアさんが詳細に説明してくれました。全文はこちらへ。

まず、オリーブマニアさんが『ライ麦畑』に惹かれたポイントを列記してみます。それから、1つ1つにぼくの感想を書いてみます。ただし思いつくままの感想ですから期待したらダメ(笑)。

  1. モンゴメリやらケストナーやら、いわゆる岩波少年文庫にあるような物語ばかりを好んで読んでいた私が、おそらく最初に読んだ心穏やかではいられない物語。
  2. もうひとつは言葉の力。主人公のホールデンがよく使う「インチキ」という言い回しを目にしたとき、今風に言えば「それ、いただいときます!」と思った。「すかした」私がさらに「すかしたい時」に使うのにこれ以上ぴったりくる言葉はないなと感じられたからです。
  3. 信用ならない偽善者の大人にたよらなければならない子供の自分に苛立つ物語。
  4. キャッチャー・イン・ザ・ライ』は、「自分なんか、たいしたもんじゃない」という視点で書かれたものではなく「たいしたものかもしれないのに・・・」というところから始まっている物語。
  5. ホールデンは成績不振を理由に学校を追放されますが、劣等性ではありません。また劣等性になりきれるほど度胸がすわっているわけでもない。/「道化にもなれない」「堕ちるところまで堕ちることもできない」、インチキ優等生あるいはインチキ劣等性の悪あがきと苛立ちに共感できるのは、おそらく同じ人種だけ。まさに私がそうだった。
  6. インチキ優等生とインチキ劣等性は、いつの時代もどこの国にも、案外多く存在するのでしょう。だから、読みつがれているのだと思います。
  7. キャッチャー・イン・ザ・ライ』の魅力とは何か。/自分と同じようなインチキなやつと出会える喜び。

(1)については、本は読んだ時期がおおきく影響しますからなるほど、とおもいました。ぼくにとっての「心穏やかでない物語」はなんだろう、と考えてみると、小説としたら高1で読んだ武者小路実篤『おめでたき人』、『世間知らず』かな。なかの率直な書きように仰天しました。小説というのは、そこまで自分自身を裸にするのかって。「小説っておもしろいなあ」なんて呑気にいってる場合ではないぞ(笑)、とおもいました。しかし、さいきん武者小路の小説はあまり読まれていないようです。そのことについて考え出すと長くなるので、説明ははぶきます。

(2)について。自分のなかの「インチキ」を意識するのは、やっぱりどうであれ頭の冴えた子供でなければできないな、っておもいました。オリーブマニアさんが書くように「優等生」でなければ。ぼくが、そういう自覚をもったのはいつだろう?

(3)はなるほどなあ、とおもいました。いくら大人の偽善や欺瞞を批判しても、それをたよらなければ生きていけない、という認識。ぼくが気づかないポイントでした。だから、そういう主人公ホールデンの苛立ちをぼくは読みとれなかった、ということ。

(4)もぼくには読みとれなかった部分です。ぼんやり育っていましたから、なにか考えているような顔をして、実は考えていませんでした(笑)。「自分なんか、たいしたもんじゃない」とも「たいしたものかもしれないのに・・・」とも自覚的に意識したことがないようです。こういう意識に自覚的になったのは、高校で太宰治などを読むようになってからでしょうか。自分で気づいた自覚ではなくて、小説からそういう意識について教えられたようです。

(5)がまさに重要なポイントなのかもしれない、とおもいました。オリーブマニアさんは、自分のなかに「優等生」と「インチキ」を同時に自覚するホールデンに共感しています。ぼくは学校がずっと嫌いでしたが、「優等生」がもつ違和感ではありませんでした。学校や教師から、規制されたり、管理されたり、強要される不快感。単純といえば単純でした。つまり、このことも作品から読みとれていない。

(6)(7)で、オリーブマニアさんが『ライ麦畑』が永遠のベストセラーであるといわれる魅力の核心を書いてくれました。つまり、「自分のようなインチキなやつと出会える喜び」。

おもしろい指摘だとおもいました。これを読んだ方から、感想やあたらしい視点の読み方を教えていただければうれしいのですが。

オリーブマニアさん、ぼくの疑問に何度も詳細に答えてくださり、ありがとうございました。

これから見たい映画(忘れないために)

tougyouさんのブログから

  • サンセット大通り』→ヤフーで配信。

http://streaming.yahoo.co.jp/c/t/00041/v00056/v0005600000000314058/

  • マタンゴ
  • 心の旅路』→ヤフー配信。

http://streaming.yahoo.co.jp/c/t/00041/v00056/v0005600000000314065/

随時追記していく。

赤線地帯(1956年)

DVDに録画されたものを見ました。

昭和31年。売春防止法の法案が国会で論議されている。これが成立したら、体を切り売りしながら苦しい生計をたてている彼女たちはどこへいくのか?

溝口健二の遺作となった作品です。ぼくが見るのは、これが3度目ですが、溝口作品で一番はじめに見たのはこの映画でした。情緒を排したかわいたリアリズムというのか、これだけ女優が共演していながら、どこにも映画らしく仕立てた甘さがありません。

この作品から、溝口健二の映画を見るようになりました。


『赤線地帯』の舞台となっている、吉原の遊郭「夢の里」で働く娼婦たちはこんな女性たちです。

  • やすみ(若尾文子は、男からお金をみつがせて、せっせと溜めこんでいる。いつまでもこの稼業をやっていてもしかたがない。いずれ溜めたお金で商売をはじめるつもりである。映画の最後にはそれが成功する。お金をみつぐ男の破滅には関心がない。
  • ゆめ子(三益愛子は、一人息子を女手ひとつで育てるため、吉原で働いている。息子は成長したが、母の職業を知り、母と子の縁を切りたいといいだす。ゆめ子は発狂してしまう。
  • より江(町田博子)は、みんなに祝福されてなじみ客へ嫁ぐが、結局嫁ぎ先でこきつかわれて、再び頭をさげて「夢の里」へもどってくる。
  • ハナエ(木暮実千代は、病弱で働けない夫と赤子をかかえて、「夢の里」に通いで働いている。夫は「生きている価値がないから死にたい」という。ハナエが働いても働いても、借金はかさむばかりだ。
  • ミッキー(京マチ子は、元黒人兵のオンリー。彼女は生活に背景をもたないだけ気楽なようだ。映画では、ガシガシどんぶり飯をかっこむシーンが出てくる。ドライに客をとるが、高価なものをやたらと買うので「夢の里」の借金はふえるばかり。
  • しず子(川上康子)は、「夢の里」へ下働きにやってきたまだあどけない少女。はじめてきれいに着飾ると、おそるおそる柱の陰から「ちょいと」と客に声をかける、そこで映画は突然終る。


これまでの溝口作品は、描かれる世界は厳しくても、そのなかに生きる主人公はどこか善良や誠実であって、そこに人情噺が生まれる土壌がありましたが、『赤線地帯』では、いっさいの情緒ははぶかれて、最後に笑うものは守銭奴に徹した若尾文子だけ。

徹底したリアリズムが貫かれています。すごい作品だとおもいました。