かぶとむし日記

映画、音楽、本の感想を中心に日記を更新しています。

「ぼくも征くのだけれど……」〜竹内浩三の学生時代

ぼくもいくさに征くのだけれど―竹内浩三の詩と死


●これは、2005年12月19日の続きです。


■「金がきたら」

金がきたら   竹内浩三


金がきたら
ゲタを買おう
そう人のゲタばかり
かりてはいられまい


金がきたら
花ビンを買おう
部屋のソウジもして 気持ちよくしよう


金がきたら
ヤカンを買おう
いくらお茶があっても 水茶はこまる


(略)


金がきたら
レコードを入れを買おう
いつ踏んで わってしまうかわからない


金がきたら
金がきたら
ボクは借金をはらわねばならない
すると 又 なにもかもなくなる
そしたら又借金をしよう
そして 本や 映画や うどんや スシや バット【注1*1に使おう
金は天下のまわりもんじゃ
本がふえたから もう一つ本箱を買おうか

これは、1940年9月21日、竹内浩三が学生時代、東京から姉、松島こうへ送った手紙のなかの詩です。浩三は、毎日映画を見、レコードや本を買い、学生生活を楽しんでいました。ひそかに、よくいく喫茶店に好きな女性もいました(片想いでしたが)。浩三は、戦時下のなかで、彼の青春を謳歌していたのです。

でも、彼の親戚からは、浩三に強い非難がおこっていました。彼の郷里では、竹内浩三は、親の残した財産をいたずらに費消する、放蕩息子のような目で見られていました。

あいだにはいった姉、松島こうは、それを苦慮しました。浩三へは、「もう少しお金を大事に使いなさい。おとうさんが残してくれた財産は、無尽蔵ではないのですよ」というように、彼の出費をいさめています。

そんなところへ、浩三から送られてきた手紙にあったのが、この「金がきたら」の詩です。なんと、無邪気な(笑)。これをもらった姉は、苦笑したにちがいありません。姉にとって、弟の浩三はいつも憎めない存在でした。もちろん、浩三にとっても、姉は彼が甘え、いいたいことをいえる唯一の肉親でした。


■松島こう宛の手紙を抜粋します(1940年9月21日)

○出席簿の自分の名前のところにマルを自分で書くしかけになっている。一学期は、なんねこんなものと考えて、マルをつけなかったりしていて、ひどいめに会ったので、つけることにきめている。


○日本劇場へ「祖国に告ぐ」を見にいこうか、と山室に云う。金がないと云う。今日はオレが持っとる(送金依頼の手紙なのに、こんなことを言っています(笑)=beatle【注】)。


○金があると、悪いくせで古本屋によることになっている。カネツネキヨスケ博士の『音楽と生活』を見つける。この人のものは読みたく思っていたので、さっそく買う。それに、古い映画評論を一冊。


○二人で(山室と)省線にのり、有楽町でおりる。やっぱりギンザはいい。


日劇にはいる。ヒビヤからシンジュクまでバスにのり、シンジュクは素通りして、コーエンジにかえってくる。


○ひょっとしたら、家からお金がきていないかと考えて、部屋に入り、いつもさびしくなる。


○しばらく本を読んでいて、町に出る。ウゾームゾーにまじって町をあるく。オレは、ウゾーかムゾーかな。光延堂にちょっと寄ってみると、竹内さん、日本文学全集と世界文学全集がきていますと云う。ああ、そうですかと、すこし困った。今、金がないから日本の方だけにして下さい。世界はアトからもらいにきます。


○帰ってみて、ふところをしらべてみたら、アワレ、昨夜の金はもはや一円二十五銭! すべて、こんなちょうし。あしたから二日休みがつづくのに、どこへも行かず、おとなしく本を読んでいるより、しかたあるまい。

冒頭の「金があれば」の詩は、この手紙の最後に書かれていたものです。


■彼の残したメモから……

1940年6月20日、姉=松島こう宛の手紙の抜粋です。

映画について:むつかしいもの。この上もなくむつかしいもの。映画。こんなにむつかしいとは知らなんだ。知らなんだ。


金について:あればあるほどいい。又、なければそれでもいい。


女について:女のために死ぬ人もいる。そして、僕などはその人によくやったと云いたいらしい。


戦争について:僕だって、戦争へ行けば忠義をつくすだろう。僕の心臓は強くないし、神経も細い方だから。

松島こうは、浩三の両親亡きあとは、姉でありながら、母でもありました。嫁ぎ先からも、つねに浩三のことを心配しつづけました。竹内浩三のことを知ると、誰でもこの「松島こう」の存在にゆきあたるのです。

浩三は、愛情とわがままをこの姉に遠慮なくぶつけ、東京生活や、兵営生活から、姉宛に文章と詩をつづって、送りました。戦後、浩三の文章や詩を「松阪市」の広報誌に応募し、「竹内浩三」を戦後の日本に紹介するキッカケになったのも、この松島こうでした。


松島こうへ、浩三はこんな甘えた憎まれ口を手紙でおくっています(1942年6月6日)。

あんたは浩三の姉でありながら、浩三論を書かしたら、丙か丁しか点はもらえないと思う。ぼおっとした性格と判断したところに、誤りがある。これほど神経の細いやつはない、とある友達が見破りやがった。大岩保さんも、見破りやがった。おれの詩や小説をみたら、わかりそうなものじゃ。それを知らずにいるなんて、あんたの方が、大分のどかに出来ている。ひょっとすると、わかっていて、知らん顔をしているのかもわからん。それなら、たいしたものだ。でも、そんなことは、よもやあるまいて。ざまみろ。


■軍靴が、浩三に迫ってくる


しかし、浩三には、迫ってくる、そして逃げることのできない「戦争」という現実がありました。

○三ヶ月もすれば、ぼくも征くのだけれど だけど こうしてぼんやりしている(「ぼくもいくさに征くのだけれど」より)


○あねさんよ。手紙みた。あめりかの飛行機がせめてきて、バクダンをおとして行った。国民学校の子供を打ち殺した。ハラがたった。飛んでいるのも見えた。石をぶつけてやろうと思った(1942年4月24日)。


○理性とは、勇気のないことを意味する。(略)
さっきまで、よこにいて、げらげら笑っていた戦友が、どうだ、爆弾が、ボンと炸裂したかと、おもったら、腰から上がなくなって、ズボンの上に、ベロベロと腸がくねりだして、死んでしまった。
サンチメンタリズム(原文のママ)の、みじんもゆるされないところだ【注2】*2


○自分のことばかり考えていた。しばらくでも、姉を悦ばすことに考えを用いよう。戦争に征くまでに、何かやりまする。あなたがぼくを誇りうるようなことを、やりまする。せめてもの、お礼。


○わたしの おとうとは こんなに えらかった と、人にいばって下さい。(姉宛。日付不明)


チャイコフスキーの「悲愴」

1942年10月1日、日本大学専門部を半年繰上げして、竹内浩三は、楽しかった学生生活を終わりました。故郷の伊勢に帰り、姉と親族と近所の人から、入営を見送られることになりました。

松島こうは、浩三を見送るための人たちが集まったのに、かんじんの浩三がいつまでも部屋を出てこないのでハラハラしました。外では、みんなが浩三を待っています。

こうが、迎えにいくと、彼はチャイコフスキーの「悲愴」を、両膝を抱え込むようにして、じっと聴いていました。

以下は、稲泉連著「ぼくもいくさに征くのだけれど」(冒頭の写真は、この本の表紙です)から引用させてください。

「みなさんずいぶん待っていただいているんやで……。もう時間もないから出てきてよ」

しかし、浩三は姉の声に何の反応も示さなかった。声が耳に届いてるのかいないのか、やはりじっと膝を抱えたままなのだ。

……しばらく黙ったまま曲を聴き続けると、顔をこちらに向けることなく、彼はそのままの姿で静かに言った。

「姉さん、もうこんな音楽はこれから絶対に聴けないんやで。もう少しだけ、頼むから最終楽章まで聴かせてくれよ」

松島こうは、弟の願いをいさめることができませんでした。

彼女は襖をしめて、時間を気にしながらも、浩三といっしょに「悲愴」(松島こうが、これをチャイコフスキーの「悲愴」であると知るのは、あとになってからでしたが)を聴くことにしました。


■浩三が入営前に残した書置き

1942年10月1日、彼は三重県久居(ひさい)町の中部第38部隊に入営します。その日、彼は部屋の勉強机に、次のような書置きを残しました。

十月一日、すきとおった青空に、ぼくは、高々と、日の丸をかかげます。ぼくの日の丸は日にかがやいてぱたぱた鳴りましょう。

十月一日、ぼくは○○連隊に入営します。

ぼくの日の丸は、たぶんいくさ場に立つでしょう。ぼくの日の丸は、どんな風にも雨にもまけませぬ。ちぎれてとびちるまで、ぱたぱた鳴りましょう。ぼくは、今まで、みなさんにいろいろめいわくをおかけしました。みなさんは、ぼくに対して、じつに、親切でした。ただ、ありがたく思っています。

ありがとうございました。

死ぬるまで、ひたぶる、たたかって、きます

*1:バット:当時一般的に愛用されていたタバコです。

*2:戦場のイメージ:このときは想像の段階で、浩三が現実にそれを体験するのは、もう少しあとのことです。