かぶとむし日記

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清水正著「志賀直哉とドストエフスキー」

志賀直哉とドストエフスキー
志賀直哉ドストエフスキー、この作家としてちょっと共通点を見出しがたい二人をどのように評論するのか、という興味から読んでみましたが、要するにドストエフスキーが大好きな著者が、ドスト的な視点から厳しく志賀直哉の小説を批評してみました、という1冊でした。

志賀直哉の小説は、昭和初期までは「小説の神様」といわれるような最大限の賛辞と、また大きな影響力をもっておりましたが、戦後、太宰治坂口安吾織田作之助などの無頼派作家によって、体当たり批判が開始されました。権威打倒としてのターゲットに、無頼派作家は、当時最大の尊敬を集めていた、志賀直哉を選択したのだとおもいます。

太宰、坂口、織田よりも、もう少し理論の体裁をなしたものとしては、中野重治中村光夫などの批判的な志賀直哉論が提示されました。志賀文学の特異性、歪みが明らかにされたのです。

志賀打倒、の時代がやってきたわけですが、あらゆる意味でごまかしのない「自分を正直に描いた」志賀直哉の作品は、まったく批評に対しては無防備で、指摘すればその欠陥がボロボロ出てくることに、小説家や評論家は気づいたのです。ひとたび誰かがやってしまえば、志賀直哉批判は、それほどむずかしいことではなかったのでした。

しかし、その後中野や中村の批判は認めるとしても、それで志賀文学を安易に否定するのは性急すぎはしないか、という志賀文学の再評価が本田秋五、平野謙、須藤松雄などによってなされました。また評論ではありませんが、阿川弘之の「志賀直哉」という大作も、志賀文学再評価の有力な1冊だとおもいます。

清水正の本著は、志賀直哉否定論の系列に属する1冊です。「ドストエフスキー大好き!」らしい清水正は、ドスト文学に1つ1つ比較検証しながら、志賀文学、さらには志賀直哉という特異な顔をもつ文学・人間の否定を、大胆な表現で試みています。

清水正の評論は、それなりに説得力もありおもしろく読んだのですが、不満もあります。

いくら私小説でも主人公=志賀直哉ではないので、例えば、志賀自身が「濁った頭」の津田(作者の分身)を作品のなかで、すでに作者自ら批判的に描いていることを、津田=志賀として同一視して、執拗に主人公の津田=志賀批判しているところなど、いまさら、という気がしなくもありません。

志賀直哉は、主人公を「私」として描くときでも、作者は「私」と距離をとることのある作家です。

有名はところでは、「和解」の「私」が、自分の赤子が死んでいく事態に直面し、うろたえるシーンがリアルに描かれています。

「私」は明らかに興奮状態にありますが、それを観察する「作者」は、冷静に赤子の様態が変化し、死相があらわれていく様子を詳細に描いています。小林秀雄が「見ようとしないで見てしまう眼」と、その才能を指摘した志賀直哉の特質です。

清水正は、この主人公=志賀直哉、作者=志賀直哉を同一視して論じているので、例えば、子供の死に直面して、これほど死の状況を冷淡に観察できる志賀直哉は、なんと冷酷な人間だろう、という結論にいきなり飛躍してしまうのです。


【注】清水正は「志賀直哉ドストエフスキー」で、この「和解」について論じているわけではありません。しかし、これと同様の論じ方をしております。


もう1つ清水正の大きな指摘は「志賀文学には神の問題がない」ということについてです。

小津安二郎なら、一生懸命、豆腐をつくっているところへ、なんでハンバーグをつくらないのか、と非難をされても困るよ、というところでしょう。このへんはぼくには、どうもないものねだりのような気もするのですが……。

しかし、ともかくぼくは一方のドストエフスキーをきちんと読んでないので、あまり公平な視点をもてません。

清水正の本は、もう一度しっかりドストエフスキーを読んでみたい、そんな気に、ぼくをさせてくれました。