かぶとむし日記

映画、音楽、本の感想を中心に日記を更新しています。

いざ鎌倉へ!(笑)


先日は鎌倉へいくつもりが、上野の立ち飲み屋に変更になりましたが、今度はちゃんと行ってきました(笑)。


■10月20日金曜日

10時頃JR渋谷駅から湘南新宿ラインで鎌倉へ。いままでは東京から横須賀線で行っていたので、このコースでいくのははじめて。乗換えなしで鎌倉へ一直線。ただ東京経由より本数は少ない。

ひとり歩きの鎌倉 (ひとり歩きシリーズ)
2年ぶりの鎌倉。前回は北鎌倉でおりたが、今回は鎌倉で下車。『ひとり歩きの鎌倉』という本を持参して、今日のコースを選択する。「小町どおり」を歩いて、まずは八幡宮へ。最初に鎌倉国宝館を見る。平日で人は少なかったが、外国人が数人いて、熱心に仏像を見ていた。


鎌倉は奈良・京都に比べると仏像が少ない。ここの国宝館を除くと、仏像を目的の旅行では消化不良になる。武家政治は、仏像に関心が薄かったのか、というとそんなことはなくて、むしろ武家社会らしい力強い仏像はこの時代につくられている。誰でも名を知っている運慶はこの時代のひとだ。最近ガイド本を読んで知ったことだが、鎌倉幕府が滅亡したときに、大半の仏像が一緒に焼けてしまったのが原因らしい。


国宝館から八幡宮の池でみそおでんを食べて、金沢街道へ。今日は主にこの街道沿いの寺を見る予定。八幡宮に近い「大学前」というバス亭から乗って、「杉本観音」で下車。鎌倉で一番古いという杉本寺へ寄る。建立は天平6(734)年。階段の両脇にずっと白いノボリが立っている。本堂は藁屋根、中には十一面観音像や運慶の作品が安置されている。



【写真】:階段の両脇に白いノボリが立っている杉本寺



杉本寺から釈迦堂切り通しへ。住宅の中をぬけていくと、段々さびしい山道になる。釈迦堂切り通しを通りぬけると、名越(なごえ)へいけるらしいが、落石の危険あり、で通行禁止になっている。



【写真】:釈迦堂切通しの奇観



映画『ツゴイネルワイゼン』は、鎌倉で撮影されているが、なかに切り通しも出てくる。印象的で、切り通しがあの世とこの世の境界線のように使われている。どこの切り通しで撮影したのかな、とそんなことを思う。


釈迦堂切り通しから折り返して、報国寺へ。拝観料を払って中へはいると、竹林が壮観だった。



【写真】:報国寺の竹林



華頂宮の洋館と庭を眺めて、そこから少し歩き、浄妙寺の境内を見る。特に何もない寺で、ここから金沢街道を引き返す。バスの時間を見ると、だいぶ間があるので歩くことにする。



【写真】:旧華頂宮邸の洋館。なんと読むのだろう?



今回は予定にしていなかったが歩く途中少し遠回りして、鎌倉宮へ立ち寄り、護良親王(もりながしんのう)が幽閉された土牢を見る。

護良親王は、後醍醐天皇の子どもで、足利尊氏の弟、足利直義(ただよし)によって幽閉され、ここを引き払うときに暗殺されてしまう。28歳という若い死である。

狭く、湿気の多い、昼でも光の届かない土牢に9ヶ月にわたって幽閉され、親王はどのような健康状態にあったか。



【写真】:護良親王が幽閉されたという伝説の土牢



護良親王は、足利直義(ただよし)の家臣から首を刎ねられるが、切られた首が刃先を噛んで抵抗した、というすさまじい伝説が残る。



【注】:『ひとり歩きの鎌倉』によれば、護良親王の土牢幽閉は、後世につくられた「伝説」であるということです。



鎌倉宮から近いので、yotarosanが推薦してくださった覚園寺へ寄ることを検討したが、もともとこのコースは今回予定していなかったので、調べると、覚園寺は、自由拝観ではなく、時間が決められているという(僧侶の解説つきで拝観するため)。最終の拝観時間が15時なので、これからでは間に合わず、次回に持ち越しにする。


小さな中華屋さんに寄って、旅行中の定番であるラーメンとビールの昼食(笑)。もう16時に近い。


メイン通りの若宮大路(わかみやおおじ)に並行している小町大路(こまちおおじ)の両脇にある小さなお寺や旧跡を見て歩く。

宝戒寺(ほうかいじ)→妙隆寺(みょうりゅうじ)→日蓮辻説法跡(にちれんつじせっぽうあと)→大巧寺(だいぎょうじ)→本覚寺(ほんがくじ)→妙本寺(みょうほんじ)。



【写真】:日蓮辻説法跡



鎌倉駅にいって、最後に居酒屋で一杯飲んで帰るかな、と思いつつ、小さな頃、いつも鎌倉へいくと定宿にしていた親しい親戚があるので、電話してみる。


80歳になる伯父さんが、「そこまで来ているならおいでよ」というので、すぐ小坪へ行くバスに飛び乗る。顔を見てすぐ引き返すつもりだったが、行ったらきっと帰れないだろう、という思いもあって、やっぱり泊まることになる(笑)。

お酒を全然飲まない伯父、奥さん、小さい頃いつも遊んでいた1つ下の従妹(結婚しても、すぐ近くに住んでいる)を相手に、ひとりビールを次々あけながら懐かしい昔話をしていると、酔いが回った。





■10月21日土曜日


目が覚めたとき、一瞬どこにいるのだろうと考る。昨晩はひとりで勝手に飲んで、眠ってしまった(笑)。

パンとコーヒーと目玉焼きの朝食を食べて、伯父と一緒に家を出る。途中お寺見学やハイキングをしながら、鎌倉駅まで歩くことにする。



【写真】:高台にある伯父の家からの眺望。昔向こうに見えるのは小高い丘で、家は一軒もなかった。その丘が住宅地として開発された。住宅地の向こうには材木座海岸がある



日蓮が『立正安国論(りっしょうあんこくろん)』を書いたといわれる安国論寺を見てから、鎌倉の苔寺といわれる妙法寺へ。

境内は広く、木々の生い茂った長い階段を昇っていくと、頂上に「護良親王(もりながしんのう)の墓」があった。ガイド本によれば、親王の遺児である日叡上人(にちえいしょうにん)が堂塔伽藍を建立した、とある。



【写真】:安国論寺。伯父が中央に小さく見える(笑)



【写真】:鎌倉の苔寺妙法寺の境内



【写真】:妙法寺の頂上にある護良親王の墓



妙法寺から安養院を過ぎて八雲神社へ。ここに「祇園山ハイキングコース」の登山入り口がある。伯父さんについて上ってみるが、急な登りが連続していて、昨日のお酒が体内をメチャクチャにかけめぐる。かなりつらい。甘く見ていたようだ。

80歳の伯父はスタスタ昇っていく。大変な健脚である。歳の若いこちらが弱音を吐くわけにはいかないので、黙って後に続く。登りと下りの連続に、息がハアハアする。仕事あけで持参した荷物が重かった。


約1時間のハイキングから山を下りたところに「高時腹切りやぐら」という史跡がある。



【写真】:高時腹切りやぐら



足利尊氏に攻められた北条高時以下総勢870人は、東勝寺(とうしょうじ)の境内で次々自害して果て、寺に火を放った。猛火が東勝寺を包む。新田義貞が鎌倉に攻め込んだ4日後のことだった。

東勝寺は焼けたまま再建されていない。ただその跡が史跡「高時腹切りやぐら」として祀られている。


小さな頃から鎌倉へ来ると、伯父の家へいくのがたのしみだった。伯父は母の兄で、父の友人でもある。伯父と父は性格は全然違うが親しかった。

2004年にわたしの父は亡くなり、今年また母が亡くなった。父と同じ年齢の伯父がいまも元気で、むかしと同じように歓待してくれたのがうれしかった。


「何かおいしいものを食べようよ」と伯父がいってくれたが、お酒が残っているわたしは食欲があまりなく、そば屋へ寄る。


冷たいそばと鎌倉ビールが喉をひやしてうまい。


13時過ぎ、鎌倉駅で伯父と別れる。むかし姿勢のよかった伯父の後姿が少し猫背だった。