■永井啓夫(ながい・ひろお)著『三遊亭円朝』
本文だけでも2段組300頁近くある本格的な伝記です。資料的に整理して、三遊亭円朝の周辺を後世に残そうという意図からか、円朝と交流のあった人物までも、詳しく紹介しております。それが、逆にはじめて三遊亭円朝を知ろうとして読むものにはわずらわしくもありました。要するに、初心者向けではない、ということですね。途中で一息いれていたら、間があいて、読了するまでに随分時間がたってしまいました。
人情噺の創始者らしく、円朝という人間は、そのまま「親孝行」「師孝行」「弟子孝行」で、「三遊亭一家」を守り、どこか人間も大人(たいじん)の風があるようです。噺家の地位向上にも気を配ったということですが、円朝は政財界のひととの交流も浅くありません。
つまり社会的に申し分ない人間ということなのですが……
ぼく自身はどうもこういう人物像にはあまり魅力を感じない方で、例えば、三遊亭円朝の人情噺も、教訓臭いところよりも、人間の「悪心」を鋭く描くリアリストぶりに惹かれます。
話はずれますが、この本で興味をひかれたのは、三遊亭円朝のたったひとりの息子、朝太郎のことでした。円朝の遺伝子をひく才能の片鱗をみせながら、居住が定まらず、たびたび家を失踪して、円朝から廃嫡されてしまいます。
どこでどうしていたのか、朝太郎は、円朝の通夜には顔を出しますが、1ヶ月後の葬儀にはまたもや行方不明となって出席しておりません。
本文より引用します。
その後、三回忌のときも姿をあらわさなかったが、読経が済んで墓所に一同が行ってみると、美しい花が供えられてあり、小さい紙片に鉛筆で(円朝倅)と記されていたので、一同は顔を見合わせて、暗涙にむせんだという。
二世三遊亭松鯉(なんて読むのだろう?)は、大正年間、ちんどん屋の旗持ちをしていた朝太郎を見ているが、その後、墓堀人夫などとなり、円朝の子とは名のらずに過ごしたらしい。
藤浦家には、度々小遣いを貰いに来たが、関東大震災以後は全く姿を見せなくなったので、震災のため死去したものとして、藤浦家ではこの日を命日としている。
(中略)
あたら才能を持ちながら、酒癖に克てなかった朝太郎の一生は、名人を父とする人だけに、朝太郎自身のためにも、円朝のためにも哀惜の念に堪えない。
とありますが、この朝太郎の行状はまさに円朝の人情噺に登場しそうで、1つの典型を極めています。朝太郎のなかに、どんな葛藤と苦しみがあったのか、著者の永井啓夫(ながい・ひろお)はスポットをあてておりません。