かぶとむし日記

映画、音楽、本の感想を中心に日記を更新しています。

23歳で戦死した竹内浩三を読む〜その1


稲泉連著「ぼくもいくさに征くのだけれど―竹内浩三の詩と死」

ぼくが、竹内浩三のことを知ったのは最近です。稲泉連(いないずみ・れん)氏の「ぼくもいくさに征くのだけれど」 を読んで、知りました。

稲泉連氏は、まだ20歳代のノンフィクション・ライターです。彼の著書には、「僕の高校中退マニュアル」、「僕らが働く理由、働かない理由、働けない理由」がありますが、この2冊の著書から、竹内浩三を描いた「ぼくもいくさに征くのだけれど」にいくまでには、テーマの飛躍があります。なぜ若い稲泉連氏が、60年以上も前に、23歳で戦没した竹内浩三に関心を持ったのか。

ぼくもいくさに征くのだけれど―竹内浩三の詩と死
彼の本から要約すると、、、

稲泉連氏は、戦争のことははるか遠い時代の出来事だとおもっていた。その中にいる兵隊たちのことも。しかし、竹内浩三の詩に触れるにつれ、彼は、自分とほとんど変わらない年齢のひとりの青年が、戦争の中で何を考えていたかを知り、戦争の時代が身近に感じられてきた、という意味のことを書いております。

生きる時代を超えて、二人の青年の心が触れ合った、といってもよいのではないか、と思います。

稲泉連氏の著書のタイトルにもなった、竹内浩三の「ぼくもいくさに征くのだけれど」は、こんな詩です。

街はいくさがたりであふれ
どこへいっても征くはなし かったはなし


三ヶ月もたてばぼくも征くのだけれど
だけど こうしてぼんやりしている


ぼくがいくさに征ったなら
一体ぼくはなにするだろう てがらたてるかな


だれもかれもおとこならみんな征く
ぼくも征くのだけれど 征くのだけれど


なんにもできず
蝶をとったり 子供とあそんだり
うっかりしていて戦死するかしら


そんなまぬけなぼくなので
どうか人なみにいくさができますよう

竹内浩三は、1942(昭和17)年10月1日に、三重県久居町の中部第38部隊に入営していますが、その数ヶ月前に、この詩を残しておりました。

国の危急に際して、戦争にはいかなければならない、しかし、映画や文学やクラシック音楽を愛した竹内浩三にとって、戦争は、迷いなく勇猛果敢にとりくめるものではありませんでした。


■ぼくが戦う、それはそれでよいのだが……


竹内浩三は、反戦詩人ではありませんでした。しかし、彼は、日本のためにお役に立ちたいと思いながら、生来の不器用さもあって、軍隊の演習では、思うように成果をあげることができなかったようです。

竹内が入営中に、手帳に書き綴った「筑波日記」に、こんな詩のような文があります。

原文はカタカナで表記されていますが、読みやすいように、かな文に書き換えました。

ぼくが汗をかいて、ぼくが銃を持って。
ぼくが、グライダァで、敵の中へ降りて、
ぼくが戦う。
草に花に、むすめさんに、
白い雲に、みれんもなく。
力のかぎり、根かぎり。
それはそれでよいのだが。
わけもなく悲しくなる。
白いきれいな粉ぐすりがあって、
それをばら撒くと、人が、みんなたのしくならないものか。

戦うことは仕方ないけれど、本心いえば戦争なんてなければいいのに……これが、竹内浩三の心を占めていた真情ではなかったか。

「みんなたのしくならないものか」の、彼の切ない願いが、心に染みます。


天皇と戦争を称えた愛国詩、国民詩。


桑島弦ニ著「純白の花負いて」は、戦争時代職業詩人が、どのような愛国詩、国民詩を書いていたか、そして戦後そのことを忘れていたかのように恥じることなく、詩人の看板をかかげたまま生きていったか、怒りをこめて綴っています。そして、桑島氏は、その対極に存在するものとして、無名の一青年=竹内浩三が書き残した詩に注目しています。

愛国詩、国民詩とはどのようなものか、3つほど、桑島弦ニ氏の著書「純白の花負いて」から引用します。長いので抜粋ですが。

 「神いでましぬ」(抜粋)   蔵原伸二郎

みたみわれら
一億の大和民族
いまや
勅を拝し
錦旗を奉じ
先駆して世界の悪虐をうつ
ああ
人類をその処にあらしめんと
宣(のたま)はせられ神出でまし給へるなり
ああ 有難やうつつ世にして
神いでましぬ


「新しい歴史」(抜粋)   佐伯郁郎

夢よ太古に繋がれ
新しい神話よ羽ばたけ。

かつての創生の神々の意志が
いまや新しい歴史の一頁を
東亜に拓こうとしてゐるのだ。



「道」(全文)   大江満雄

夕ぐれ 戦死者を迎へるひと
群をなして音を立てず
粗衣をまとふて子を背負うひと
子を泣かさず
旗をたて兵にいだかれた骨壺のうしろに
妻は涙をみせず
終日わが友の妻子らもかく歩み
骨壺をいだいて
哀れみを越えるか

この愛国詩の勇ましさは、どうでしょうか。詩人の才能は、天皇と神国日本の賛美に傾注されていました。そして、夫の骨壺に、涙を見せない「戦国の妻」への賞賛。

そこに、竹内浩三の詩を並べてみると、戦争の時代の中でも、彼の詩がいかに、人間の心をそのまま自然に詠っているかが明らかになるとおもいます。



■戦死やあわれ、兵隊の死ぬるやあわれ


戦死やあわれ (岩波現代文庫)
今回は、最後に竹内浩三の詩を引用して終わります。重要なことは、これが、戦後ではなく、先の愛国詩と同じ時代=戦争の真っ只中に、書かれていたことです【注1】*1

「骨のうたう」(竹内浩三作、中井利亮補作)

戦死やあわれ
兵隊の死ぬるや あわれ
遠い他国で ひょんと死ぬるや
だまって だれもいないところで
ひょんと死ぬるや
ふるさとの風や
こいびとの眼や
ひょんと消ゆるや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や


白い箱にて 故国をながめる
音もなく なんにもなく
帰っては きましたけれど
故国の人のよそよそしさや
自分の事務や女のみだしなみが大切で
骨は骨 骨を愛する人もなし
骨は骨として 勲章をもらい
高く崇められ ほまれは高し
なれど 骨はききたかった
絶大な愛情のひびきをききたかった
がらがらどんどんと事務と常識が流れ
故国は発展にいそがしかった
女は 化粧にいそがしかった


ああ 戦死やあわれ
兵隊の死ぬるや あわれ
こらえきれないさびしさや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や

竹内は、骨になって帰ってきた戦死者のことを、「白い箱にて 故国をながめる 音もなく なんにもなく」と詠い、故国の人は、骨は骨として崇めながら、「自分の事務」と「女は化粧にいそがしかった」と、冷淡な視点で、「日本国民」をつきはなしています。

夫の骨壺をいだきながらも、涙を見せない妻の姿を賛美した詩人と、どれだけ大きな距離があるでしょうか。

竹内浩三は、映画監督を志望し、日大の専門部(現芸術学部)映画科に通いました。東京では、1日1本映画を見、本やクラシック・レコードを買い漁り、学生生活を楽しみました。

次回は、遡って、竹内浩三の学生時代を、探検したいとおもいますので、興味がありましたら、お付き合いください。

*1:竹内の詩は、ほとんどが兵営の中で、人目を盗みながら、手帳へ書き残されました。