志賀直哉は、1925(大正14)年、京都の山科から、奈良市幸町に越してきた。幸町では4年暮らし、1929年、上高畑へ転居する。
1929年4月に竣工した志賀直哉自らが設計したとされる和洋中折衷住宅。 モダンな食堂兼娯楽室とサンルームと庭園を備え、多くの文人画家の集いの場となっていたから、彼らの間で高畑サロンと呼ばれていた。
書斎は、天井が葦張りの数奇屋作りで窓から和風庭園と借景である若草山の眺望をうることができる。 ここで「暗夜行路」、「鳥取」、「雪の遠足」、「リズム」、「万歴赤絵」、「日曜日」、「颱風」、「豊年虫」 などの作品が書き上げられた。
(ウィキペディア)
ますます東京から遠く、文壇の雑事から離れ、志賀直哉は、奈良の古美術や、時代を超えた美しい風物を日々楽しんだ。
この頃、書き上げた短編は、どれも生活の断片をそのままスケッチしたような、落着いた作品がおおい。人間の葛藤やドラマはない。なんでもない日常の暮らしは、それだけで美しく、社会的な俗念がはいる余地がない。
志賀は、作品に思想やテーマを直接的にこめないが、日常を充実して生きることとは、社会的に成功することでも、人と人との競争に勝つことでもない、そんなことを間接的に描いている、ともいえた。
そんなこともあってか、、、
失恋、恋愛のもつれに悩む文学青年、文壇の生臭い人間関係に疲れた小説家・評論家などが、傷を癒すように、奈良の志賀直哉を訪問した。
志賀は文学論はしない。訪問者は、近所に住む画家のアトリエに案内されたり、一緒に散歩して、志賀の古美術好きを共有した。そして、上高畑の家では、卓球や麻雀をして遊んだ。
訪問者は、東京では味わえない、時間がとまってしまったような、奈良の風物と古美術に接し、敬愛する志賀直哉との一夜の晩餐に心を癒し、再び、現実の問題に立ち向かうため、それぞれの生活の場所へもどっていった。
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志賀直哉は、1938(昭和13)年に奈良を去る。奈良は生活に心地良すぎて、子供の教育には、「退嬰的」……というのがその理由だった。
それでも、奈良に住んでから、14年が経っていた。
志賀直哉は、奈良を、
今の奈良は昔の都の一部に過ぎないが、名画の残欠が美しいように美しい。
(「奈良」より)
と、回想している。