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読み終えて思うのは、里見弴という作家のことを、志賀直哉との関連ではある程度知っていましたが、それは全体の30%くらいにすぎないなあ、ということでした。
里見弴が、社交家であり、白樺派以外の作家とも親密に交流していた様子などは、おおまかな知識としてある程度は知っていましたが、具体的な交友関係は今回はじめて知ることが、多くありました。
なぜ里見弴が読まれなくなったか、という著者の解釈も、ある程度なっとくのいくものだ、とおもいます。
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例えば、著者はその理由として、、、
- 正妻と愛人を同時に持ち、ほとんどは愛人の家で暮している。<一夫多妻>の生活に懐疑とか反省とかいう気持ちがみられない。要するに、一夫多妻ということに根本的な疑問を持っていない、思想の古さ、がある。これはいまのひとたちに共感を得られにくいのでは、という。もっともかもしれない。
- 作品の多くが、花柳界を描いている。そういう世界の出来事が、新しい読者の興味をかきたてるものかどうか。
- 二つの生活をやりくりするにはお金がかかったはずだ。それに加えて、里見弴は、芸者屋に常住するような派手な生活をしている。豪奢な生活を維持するためか、純文学だけではなく、大衆文学的な作品、通俗作品も書き飛ばしたらしい。実際わたしが図書館へ通って読んだ『里見弴全集』には、通俗小説はほとんど含まれず、収録作品は、里見が書いた全体の一部でしかない。当時大家として文壇で重きをなした作家でも、通俗小説を書いた、菊池寛、久米正雄などは、いまはほとんど読まれていない。里見の優れた純文学作品も、通俗小説のなかに埋没してしまったきらいがあるのではないか。逆に、通俗小説を書かなかった谷崎、芥川、志賀は、いまでも読まれ続けている。
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小谷野敦(こやの・とん)の書き方は、詳細な年譜を書き下したような進め方で、垂れ流しのような文章がエンエンと続く。副題に<「馬鹿正直」の人生>とあるものの、そういう里見弴の<正直人生>を、あるコンセプトをもって、伝記から浮かびあがらせようと、いうものでもない。
細かな事象を平坦に重ねていくことで、ひとりの人間の人生とその時代背景が、おのずと浮かび上がってくるのではないか、と著者は考えているのかもしれない。伝記のなかに、作為をくわえていない、とも解釈できる。
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目次は、以下のようになっている。
- 有島家の四男・山内英夫
- 「墨汁五合」と『白樺』の創刊
- 志賀直哉との決別
- 中戸川吉ニと『人間』の仲間たち
- お良との出会いと関東大震災
- 芥川の自殺、志賀との満州シナ旅行
- 明治大学教授、若い女との恋
- 鏡花の死と帝国藝術院
- 原田日記と「姥捨」
- 「無条件降伏」から空白の時代へ
- お良の死と道元、羽左衛門
- 小津安二郎との日々
- 扇ケ谷と那須の長老
最終章 非凡長命
この章立てのなかに、小見出しがない。
ダラダラと文章が続いていくので、時々いまこの時点で里見弴は何歳なのだろう、と思うが、それを文章から探すのに手間がかかる。もう少し読みやすさを工夫してもよいのではないか、とおもう。
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志賀直哉との絶交・仲直り、その後の絶え間のない交友も描かれているが、二人の生活ぶりは対照的だ。
志賀はあくまで普通の日常を大切にし、交友は限定的。文壇の公的集まりなどにはほとんど出ない。
里見弴は、文壇の公私にわたる交流に積極的に参加している。
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花柳界を題材に描いた作家としては、いまも人気の高い永井荷風がいるが、里見と荷風には花柳界を好んだという共通点がある。
しかし、永井には、華やぎと同時に孤独を好む気質があって、その気難しさが作品の魅力でもあり、それが弴には欠けているのかもしれない。
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志賀直哉のことで、疑問におもったところが、3箇所ほどあった。
●その1
明治四十年(1907)七月、二十五歳の志賀直哉は、自家の女中の千代に恋を打ち明け、八月二十二日には千代に結婚を約束し、翌日、母と祖母に話すが猛反対され、しかし、その翌日、千代と体の関係をもってしまう。この経緯は志賀の「濁った頭」に描かれ、のちの「和解」に描かれるまでの父との反目の端緒となっている。
(46頁の1行目より)
女中千代との恋愛を描いたのは、小説「大津順吉」であって、この著者がそれを知らないはずがない。校正の段階で、チェックできなかったのだろうか。
●その2
(奈良へ旅行中)、ここで留め置きの郵便物を手にしたが、この時の手紙で英夫(弴)は、末弟行郎の二度目の落第を知ってがっかりしている。学習院では二度落第すると退学しなければならなかった。
(49頁の最終行より)
「学習院では二度落第すると退学しなければならなかった」とあるが、志賀直哉は二年落第しても、学習院を退学にはなっていない。志賀が卒業して、数年のうちにそういう校則ができた、ということだろうか。
●その3
四月下旬志賀は再度城崎へ行ったが、五月十三日、弴は城崎で志賀と合流して松江に向かった。これが、のち弴が『今年竹』で、志賀が『暗夜行路』で活用する二人の松江生活になる。
(86頁の9行より)
『暗夜行路』に松江生活のことが書かれている記憶がわたしにはない。わたしの記憶から落ちているのだろうか。志賀が松江のことを題材にした作品としては、短編『濠端の住まい』がある。
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2月6日に我孫子の白樺文学館で、この著者の「志賀直哉と里見弴」という講演がある。ハガキを出したらあたったので、久しぶりに我孫子を散歩し、白樺文学館を訪ねながら、著者の講演を聴いてみる予定。大勢の前ではだめだけれど、もしうまく時間があれば、疑問もただしてみたい。