左から、チャーリー・ワッツ、キース・リチャーズ、ミック・ジャガー、ロン・ウッド。
11月11日に『ボヘミアン・ラプソディ』を見たときは、公開からまもなかったので(11月9日公開)、これほど評判になるとは予想していなかった。だいたい音楽映画はそこに登場するミュージシャンのファンが見るものなので、観客は限定されているイメージがある。
それがいま、爆発的といえるくらい観客を動員している。リピーターもふえている。クイーンを聴いたこともないひとが見にきているという。
この爆発的人気はなんだろう?
今回見にいった12月3日は、月曜日。平日の2回目の上映だったが、客席はごく前の方の席はあいているが、7〜8割くらいの埋まり方。評判の映画でも、ガラガラで見ることが多いので、この熱気ぶりはすごい。
最初にこの映画を見てから、クイーンの楽曲のよさにあらためて目覚め、クルマのなかなどでよく聴くようになった。そして、あらためて独創的で、類似するバンドが思い当たらないな、っておもう。この映画をキッカケにたくさんのクイーンの音楽ファンが開拓されるのでは。
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映画のなかで、フレディが高額のギャラをつまれ、ソロ活動をやろうかと考える、バンドの危機を描いたシーンがある。
これと類似したことが、同じ時期にローリング・ストーンズでも起きている。きょうは、クイーンではなく、その話。
当時、ミック・ジャガーははじめてのソロ・アルバム『She's the Boss』(1985年)を発表。
キース・リチャーズがストーンズのツアーをやろうというのを蹴って、ミックは、ソロ・ツアーに乗り出した。
ミックのワールド・ツアーは、はじめはソロのナンバーを中心に組まれていたようだけれど、観客の反応がイマイチで、だんだんストーンズの曲が多くなっていったようだ。
わたしは、ニュースなどをチェックして、ローリング・ストーンズのツアーを蹴ってまでして、結局、ソロ・ツアーでストーンズ・ナンバーを中心に構成するのはなっとくがいかない、とおもった。
そのとき、ミックは、日本にも来日しているが、見にいっていない。わたしはミック・ジャガーではなく、ローリング・ストーンズを見たかったのだ。
キース・リチャーズは、カンカンにミックを怒っていて、「奴をやめさせても、おれはストーンズを続ける」とインタビューで語っていた。
「シンガーは、バンドのフロントで歌っていると、このバンドは自分ひとりのものだって錯覚するんだ」と分析した。
また、
「ミックが、チャーリー(ワッツ)に、『おい、おれのドラマー』、って上目線のものいいをしたとき、チャーリーは、『なんだ。おれのシンガー』といってた(笑)。チャーリーは、おとなしいけど、そういうやつなんだ」、キースは笑いながら、そんなエピソードも話していた。
キースの場合、もってまわった言い方はしないから、怒りも直接的だ。わたしは、とうとうストーンズも分裂するのか、とおもった。キースは、ストーンズは解散しない、というからたぶんミック・ジャガーが脱退することになるのだろう。しかし、ストーンズのヴォーカルがミックではなくなる、というのはちょっと想像しにくかった。
ミックのソロ『She's the Boss』が成功したら、あの1985年にストーンズは、ミックが脱退したのかもしれない。しかし、ミックのソロへの挑戦ははかばかしくなく、フェイド・アウトしていく。
そんな状態だったので、「ライブ・エイド」には、ミックは単独で出場し、キース・リチャーズとロン・ウッドは、アコスティック・ギターでボブ・ディランのバック・ミュージシャンとして出場している。
ストーンズのその後は、ミックとキースが和解して、ストーンズは現在も継続している。和解の詳細はわかっていないが、おさななじみの関係であればいいたいことはいいあっても、何かのきっかけで氷解するのかもしれないが、わたしは、映画『ボヘミアン・ラプソディ』の和解のシーンを想像してしまう。
危機を乗り越えたローリング・ストーンズは、アルバム『スティール・ホイールズ』を発表し(1989年)、本格的に再始動を開始。ワールド・ツアーに出る。
1990年、ついにローリング・ストーンズは、日本に初来日。
ビートルズの初来日は、1966年だった。それから24年も遅い初来日になる。会場は東京ドーム。コンサートの入場料がはじめて1万円の大台にのった。