かぶとむし日記

映画、音楽、本の感想を中心に日記を更新しています。

フツーのひとたちが主役の本


○上原隆著「雨にぬれても」(幻冬舎アウトロー文庫)

雨にぬれても (幻冬舎アウトロー文庫)
ノンフィクションといっても、何か大きな事件を取材しているわけではないし、有名人が登場するわけでもない。わたしたちと同じように、悩んだり、喜んだり、寂しがっている人たちが、たくさん登場してくる。1篇1篇が短いので、重いパンチを腹に受けるわけではないけれど、読後感に苦いものが残る。しかし、それは後味が悪いのとは違う。作者の目線は優しい。でも、登場してくる主役たちが残すものはちょっと口に苦いのだ。

上原隆氏がどのような視点から人間に関心をもち、それを取材し、作品に残しているのか、この1冊ではわからない。もっと別のものをさらに読んでみたいと思う。もっと作者の目線に近づくことができるかもしれない。

本文ではないが、渡辺一史氏の文庫本解説にこんな文があった。ぼくには、非常に気になる文だったので、ご紹介したい。

まず渡辺一史氏は、上原隆氏の『「普通の人」の哲学』から、こんな上原氏の文を引用する。

私が私の信念をつかみたいのならば、痛い体験と正面に向き合うことが必要なわけだ。

わからなくはないが、これだけ切り離されても、すぐになんのことかピンとこない。しかし、次の渡辺氏の解説文を読むと、とても上原隆氏の作品の核心に触れる部分なのかもしれない気がしてくる。そして、こういう体験やおもいは、わたし自身にも他人事には感じられない。長いけど、引用する。

ここでいう「痛い体験」とは、中学時代、同じクラスにすぐ暴力をふるう番長のような生徒がいて、上原さんはいつもその生徒の暴力に屈して、逃げながら生きていたという。そこには、格好良くありたいと思っている自分のイメージからは、遠く離れたイヤな自分の姿がある。口ではどんなに偉そうなことを言っても、ポロッと口から突いて出た言葉やスッと体を動かした行為が、日頃思っていることとはまったく逆だったりすることがある。

ガーンと響くものがある。言動というのは、いつもうまく一致してくれない。暴力や権力の前では、自分がどれだけ卑屈になるかもしれない。そんな自分の姿を忘れずにいよう。そして、とりあえず今は、景気いいことや、勇ましいことをひとにいうのは控えたい、と思う。「雨にぬれても」の感想が、最後は自分自身への警告になってしまった(笑)。