かぶとむし日記

映画、音楽、本の感想を中心に日記を更新しています。

クラプトンがジョージの「愛はすべての人に」をカバー

id:ringo-starrさんの「リンゴ日記」で、エリック・クラプトンの新作『バック・ホーム』の感想を拝見しました。

ジョージ・ハリスンのカバーというと、どうもソロの前期に集中しがちで以前から不満でした。ですから、クラプトンがジョージの名作アルバム『慈愛の輝き』の「愛はすべての人に」をカバーしてくれたのはうれしかったですね。この曲はジョージのソロ作品のなかでも、とりわけすばらしい作品だとおもっております。そして、エリック・クラプトンは、かなり忠実に演奏し、歌っていますね。

ringo-starrさんがおっしゃるように、ぼくも歴戦の勇士(音楽的に)であるエリック・クラプトンでも、不思議な魅力をもつジョージ・ハリスンのオリジナルの味わいには及ばないような気がしますが、クラプトンのジョージへの敬愛は感じられました。

ただ、このジョージのカバーだけでなく、ぼくはこのところエリック・クラプトンの新しい作品に刺激が感じられなくなっています。エリック・クラプトンは過去に不幸があると、それを素材にして名曲をつくる、自らの体験を痛切に歌いあげて共感を呼ぶ‥‥そんな演歌的なところがありました。

「レイラ」は、ジョージ・ハリスン夫人だったパティ・ボイドへのかなわぬ恋情の訴えでしたし、「ティアーズ・イン・ヘブン」は、息子の死の悲しみを歌った作品ですね。そんな不幸がエリック・クラプトンの名作をうんだ、というとあまりに短絡的な発想で、そんな簡単なものではないよ、とぼく自身おもいますが、最近歌も演奏も欠陥はないのに、どこか「ロックが感じられない」と思うのは、彼の私生活が満たされていて、ロックしなければならない、モチーフを失ったせいなのかな、とちょっと考えてしまいます(注)。

でもそれはきっと、ぼくが長くクラプトンを聴いてきて、彼にあれこれ欲張りすぎているのかもしれません。

◆注:こうした具体的にあげられる有名事件だけでなく、クラプトンではドラッグやアルコールに耽溺していた時期に、彼の痛切な音楽がうまれている。音楽的には現在ような安定した高さはないけど、ぼくにはこういう時代のクラプトンの音楽に惹かれるものがある。しかし、これはムリな話で、クラプトンにいつも困難な状況にいるよう望むようなものだ。ファンとして、クラプトンが幸福な状況にいることを願っているのはあたりまえだけど。言い方をかえると、彼は自分の手足を食いながら、自分のブルースを演奏してきた、ってことかもしれない。そしていまは、それをやめて、音楽の純粋な成熟をめざしている。アーティストとしては、そのほうが幸福であるのにちがいない。