プロレタリア文学の作家、徳永直が原作。
映画をみたついでに、原作を読もうとおもい、地元の図書館で検索してみても、ひっかかってこない。いまも原作を探している。
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昭和10年代の不況が背景。
父と長男が働き、母も内職をしてるけれど、一家の生活は厳しい。働いても働いても楽にならない。
次男は、小学校を卒業したら小僧に出されることになっているが、本人は上の学校へいきたいとおもっている。しかし、そんな贅沢ができない家族の暮らしぶりに、心を悩ませている。
長男(生方明)が、5年の時間が欲しい、と言い出す。いまのままの工場つとめでは、いつになっても父母を養うことができないし、自分自身結婚もできない。5年のあいだ、知人の紹介で、あるひとの書生をやりながら、学校へ通って勉強する・・・それを許してほしい。
息子の願いを聞きながら、苦虫を噛んだような渋い表情で、晩酌のお酒を飲む父(徳川夢声)。
父には、子どもたちの要求が正しいことがわかっているし、その願いをかなえてやりたい、ともおもっている。しかし、いま長男の働き手を失ってしまえば、一家のギリギリの家計がたちゆかなくなってしまう。次男も、うえの学校どころではない。
信頼できる学校の先生に相談してみる。
先生(大日方伝)も、息子さんの気持ちをなんとかしてあげたい、しかし、お父さんの言い分も無視できない。先生も、もっと考えてみるから、その時間がほしい、といいながら、映画は解決しないまま終わってしまう。
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プロレタリア文学の代表的作家、小林多喜二の作品について、志賀直哉が「小説が主人持ちである点好みません」と、多喜二宛書簡で評したのは、よく知られている。
志賀直哉は、多喜二の小説を、一定の評価していたが、そのうえで、ひとつの思想のために、話がつくられ、人物が描かれることを、「主人持ち」の小説といった。
これは多喜二個人への志賀の批評というより、志賀のプロレタリア文学全体への見方、として考えたほうがしっくりくる。
その作家が思想を意識することなく、つくられた話の奥深い部分に、また造詣された人物の行動や言葉のなかに、思想が沁みてなければほんとうでない、というのが志賀直哉の言葉の主旨であった。
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成瀬巳喜男の作品は、プロレタリア思想はもちろんのこと、社会の不正や不満が語られているわけではない。ただ厳しい一家の状況が描かれていく。
そして、どうしたらいいだろう、いい解決策がない、もっと考えよう・・・といいながら終わる。
ぼくは、この映画を見ながら、「志賀のいう、主人持ちでないプロレタリア作品とはこういうものだろうか」というようなことをおもった。