著者は「大津順吉」について、本文で詳細な分析を試みているけれど、最後に、自ら次のように要約している。
「大津順吉」は、語る<私>と語られる<私>との間にあからさまな距離を設け、語られる対象、世界の客体化を装いながら、逆に二つの<私>の癒着を露呈させてしまう作品である。しかし、語り手が外から自分を眺める余裕を失ったその時にこそ、若者が自らを弁じようとした迫力がこの作品に生まれている。そこに、この作品の(語り)の評価が安定しない一因を見た。
本文を読んでいないと、この要約だけではわかりにくいかもしれない。
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主人公の順吉は、厳格なキリスト信者<角筈のU先生(内村鑑三)>から性欲に対して否定的な教えを受けている。
<殺すなかれ><盗むなかれ>・・・という教えは従えても、心のなかといえども女性を犯してはならないとする<姦淫するなかれ>という戒律だけは守れる自信がない、と順吉は苦しむ。
順吉は、そのために性に対して警戒深くなり、若い女性に対して偏屈な態度しかとれなくなる。
そういった順吉の性欲との争闘を描いたのが第一部である。
ここでは、志賀直哉は、順吉の偏屈さをしばしば批評的に描き、自己否定をにおわすような表現までしている。
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第二部では、順吉の家の女中、千代との恋愛を描いている。
千代と身体の関係を持った順吉は、激怒する父や家中を敵にまわして、千代との結婚を一方的に宣告する。女性と身体の関係をもった以上、結婚をすることだけが、キリスト信者の順吉にとって、自分の行為を正統化できる唯一の道である。
この第二部が、描く作者の眼と主人公の距離が失われ、「二つの<私>の癒着を露呈」させている・・・と著者はいうのだが、これは、志賀直哉が、大津順吉を、恋愛を貫徹するヒーローとして全肯定してしまっている、という、これまでの一般の批判と同一の目線だろう。
そのうえで、著者は、、、
しかし、作者の批評性が明確に出されている第一部よりも、女中との結婚を決意し、家中を敵にまわして行動する第二部のほうが、小説として魅力的だから、「大津順吉」の評価が安定しない、と結論する。
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客観化がおこなわれている第一部よりも、作者の手綱さばきが失われている第二部のほうが、どうして生々しいリアリズムを獲得し、魅力的なのか?
いわれるように、第二部で、志賀直哉は、大津順吉へ「客観の眼」を向けることを喪失しているのか?
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ここに、わたしなりの反論を書いておこう(笑)。
まずは・・・第二部の大津順吉を、志賀は、父の言葉を借りて「痴情に狂った猪武者」と侮蔑的に表現しているが、この父の言葉をはさむことは、作者の順吉への批評になっていないだろうか?
あるいは、身分の違う女性との結婚を決意し、激怒する父と敢然と闘いながらも、自分の恋愛感情が、その女中に「熱烈になれない」・・・ことを、冷静に見ている、この作者の視線はどろうだろうか?
志賀直哉の眼は、大津順吉が自分の行動を肯定しているほどには、肯定していないのではないか。
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過去の「大津順吉」批判は、はじめから志賀直哉を私小説作家と規定し、大津順吉の行動を、志賀直哉の作者自身と同一視しているところがある。
結果、小説を白紙で読むのではなく、作者の倫理的な批判におきかえて読んだりする。
おおくは、、、
女中への愛情は完全なものではなく、性欲のはけ口の要素を持っていることに作者は気づかず、それを恋愛と勘違いした順吉を批判せず、英雄のように描いている・・・というのが一般的な批判の内容だろうが、志賀直哉がそのことにほんとうに気づいていないだろうか。
わたしには、順吉の千代への恋愛感情の空隙を、志賀が見逃さずに捉えていることが、<志賀直哉の方法>による、「主観の客観化」ではないか、とおもえる。
志賀直哉は、説明を嫌う。
志賀直哉は、「大津順吉」の第一部を書くなかで、作者が顔を出し、主人公を自己批評する文章が、うるさく感じられてきたのではないか。
だから、第二部では、それをはぶいてしまった。
主人公の「熱烈になれない恋愛」感情の空隙への視線に・・・作者の批評性が残されている、というのがわたしの読みである。
青年尾崎一雄を「この小説には文章がない」と感嘆させた、というのは、おそらく、この第二部だろう。
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わたしは、著者のように逐一論拠を示す知識も根気もなく、浮かんだ思いつきを書くのが精一杯だけど、この理解のいき届いた本の著者・下岡友加氏は、半分くらいはわたしの感想に賛成してくれるのでは、といい気におもっている(笑)。