朝、川越駅へ家人がクルマで迎えにくる。
西川越に住んでいる娘に連絡すると、近くのこども服屋さんにいるというので、そこへいく。
こども服のお店のなかに、娘とその夫と、二人用ベビーカーに乗った双子の女の子(6カ月)がいた。
双子は、二人用ベビーカーのなかからわたしをめずらしそうに見て、はじめは時々笑っていたが、そのうち妹のほうが急に泣き出したので、家人が抱きあげてホイホイすると、すぐ泣きやんだ。
そのこども服屋さんから娘のアパートまでは、歩いていける距離。
妻はクルマで行き、娘と夫とわたしは、双子が並んでのっている二人用ベビーカーを押しながら、歩いて帰る。風が涼しい。
西川越は田んぼがおおく、視界が広いので、歩いていても気持ちがいい。
娘の家で手づくりのカレーを食べてから、家人の運転で、『柘榴坂の仇討』を見るため、南古谷の映画館へ向かう。
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『柘榴坂の仇討』は、中井貴一が圧倒的な存在感で迫ってくる。
先日見た、 岡田惠和脚本『最後から二番目の恋』とは、180度反対の役がら。しかし、どちらも、中井貴一という役者でないと、ありえない作品、といいたくなるほどキマっている。
以下、ネットに出ていた映画の概要。
中井貴一&阿部寛主演で映画化した人間ドラマ。主君を失い、切腹することを許されずにただ仇討を続ける男と、その最後のひとりの男との運命的な出会いが、江戸から明治へと移り変わる激動の時代を背景に描かれる。
主君井伊直弼の守り役でありながら、桜田門外で主君をみすみす襲撃・殺害されてしまう彦根藩士、志村金吾を、中井貴一が演じる。
金吾の両親は自害。金吾も切腹しようとするが許されず、「罪をすすぎたくば、騒動に関わりたる水戸者の首級(しるし)のひとつも挙げて、掃部頭様(かもん様=井伊直弼)の御墓前にお供えせよ」と、襲撃者への仇討を命じられる。
妻セツ(広末涼子)を離縁して、金吾は仇討の旅に出ようとするが、セツは本懐をとげるまで行動を共にしたい、という。
ここで最初に涙がこぼれた。
苦節13年、金吾の仇討は果たせない。襲撃者たちは、金吾の手ではなく囚われ、処刑されていく。残る仇討の相手は、佐橋十兵衛(阿部寛)ひとり。
その佐橋十兵衛の存在を発見した日も、桜田門で主君が襲撃・殺害されたときのように、朝から雪が積もっている。
妻のセツは、金吾をいつものように「いってらっしゃい」と送り出す。雪のなかを金吾は歩いていく。
セツは、本懐をとげたあとに夫は切腹するだろう、とおもっている。夫の最期の姿を、そういう覚悟で、心に刻む。
ここで、また涙がこぼれてしまった。
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この映画は、夫婦愛の物語なのだ、と遅れて知った。
夫が地位も名誉も失い、汚名にまみれても、セツは離縁を拒む。仇討探しの日々の夫の暮らしを、昼は針仕事をし、夜は居酒屋のようなところで働き、支える。
その夫は仇討の本懐をとげたときは、切腹するだろうとおもっている。これは、切ない。切なさすぎる。
このいささかセンチメンタルな物語にリアリティを吹き込んでいるのは、重厚な中井貴一の演技。見ていて惚れ惚れしてしまった。
ネットを検索したら、こんな中井貴一のインタビューを発見した。
今回はセリフで聞かせる映画じゃない。“生きざま”で見せる映画。だから役作りというより、役を自分から離さないようにしようと思ったんです。それがカメラに映れば、きっと伝わるんじゃないかなと思った。
僕はセリフってどうでもいいと思っているんです。もちろんセリフは大切なものだけど、セリフが素通りしてしまっても構わない。
詐欺師も人を言葉でだますけれど、言葉っていくらでもいいことを言える。だから本当に気持ちを伝えるものは、目だったり後ろ姿だったり、体からにじみ出るもの。これが役者の本来の姿だと思う。
僕が最終的に目指しているのは、小津安二郎監督の世界のように、役者が棒読みでもその人たちの感情が伝わる芝居。
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映画を見たあと、いつも満員ではいれない回転寿司の「スシロー」へ寄ってみる。午後2時を過ぎていて半端な時間なのか、待たずにはいれた。
ビールを飲みながら、中井貴一の演技を反復して、その余韻をたのしむ。