かぶとむし日記

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武者小路実篤著『友情』と『愛と死』を読む。

直木孝次郎著『武者小路実篤とその世界』を読んだのをきっかけに、武者小路実篤著『友情』と『愛と死』を読み返してみた。『武者小路実篤とその世界』は、研究書と思い出の記がまじったような1冊で、興味深く読ませていただいたけれど、感想はあらためて後日に。



岩波文庫の解説によれば、『友情』が「大阪毎日新聞」に連載されたのは、大正8(1919)年、作者34歳のときだという。若い!



大正7年11月には、宮崎県児湯郡木城村に、「だれもが一定の労働をすればあとは自由に自分の個性を生かすことのできる『新しき村』」の建設にとりかかっている。そんな若いしかし充実したエネルギーに満ちた時代に、この村のなかで『友情』は書かれた。


『友情』は、野島という作家が、好きで好きでならない杉子という女性を、互いに作家として尊敬しあっている大宮に、結果として奪われてしまうという話。奪うといっても、大宮はできるだけ杉子を野島と結びつけようとおもいながらも、杉子の心はますます大宮へ傾いていってしまうのだから、大宮が悪いわけではぜんぜんない。


青春文学の代表作で、10代のころ読んでどれだけ感動したことか。その後、なんども繰り返し読んでいる。そのたびに、感動している。こんども、やっぱり感動した。


なにより、武者小路実篤の平明でありながら、ピンと張りつめた文章の高揚感がすごい。誰でもわかるなんの衒いもない文章なのに、心にぐんぐん迫ってくる。純粋な野島の杉子への想い。一方的といえばそうなのだけれど、愛することで自分を高め、鼓舞していこうとする精神は、欲望が満たされないと可愛さ余って相手を憎み傷つけてしまうような「偏愛」とは似て非なるもの。


武者小路氏は、自他共に認める「失恋の名人」。想いが純粋で深いだけに、参って参って参りきってしまう。そういう失恋の傑作では、短編で「初恋(旧題は『第二の母』)」、中編で『お目出たき人』があって、これはモデルのはっきりしている、かなり事実に即している作品だけれど、『友情』と『愛と死』は、この二作品をもとに、作りに作った傑作長編小説。


こんなふうに人を一途に愛せるのも才能だと、感心してしまう。でも、若いときは、こういう恋に恋する想いが誰にもあって、だからすばらしい青春小説を読んで感動するのだと、おもうけど。


『友情』の結末は、悲しい。悲しすぎる。でも、暗くない。主人公は、みごとに打ちのめされるが、それに負けず自分をますます高め、世界に並ぶ文学を書こうと、自分を鼓舞する。そのラストの清々しい感動は、武者小路実篤文学しか味わえない。



『愛と死』は、昭和14(1939)年、「日本評論」に発表されている。『友情』から20年が経っていた。武者小路実篤は、54歳になっている。「新しき村」での農村生活から6年で離れ、村外会員として、しかし、むかしと変わらぬ熱情を「新しき村」に注いでいる。昭和11(1936)年に、8ヶ月間のヨーロッパ旅行へ出かけた。その体験が『愛と死』の後半に反映されている。



『愛と死』は、主人公の回想として描かれているので、『友情』のような激しさはないな、と前半はおもって読んでいると、そうではなくて、「恋愛」を描く武者小路実篤は、やっぱり加熱して、文章がだんだん激していく。『友情』では、失恋におわった恋が、『愛と死』では、得恋になって物語はすすむ。本当に愛するひとから愛されるというのは、どれほどすばらしいことか、というのを武者小路実篤は、主人公・村岡と恋人・夏子の会話で描いていく。ふたりの会話がたのしい。武者小路実篤独自の会話小説をたのしめる。失恋時代の空想家・武者小路実篤が、もし意中の恋人と愛しあえたら、こんなことも話そう、あんなことも話そうと、ひとりで空想したことが(おそらく)、村岡と夏子の会話に表れていて、なんともいえない幸福感に包まれる。


しかし、この小説は、そこから一気に急回転する。それはまだ読んでいないひとのために、ここには書かないでおこう。


武者小路実篤の後半の原稿には、インクが滲んでいる箇所がいくつもあったという。実篤は、書きながら泣いているのだ。54歳・武者小路実篤の感性は、若いときと変わっていない。自身の体験的実感をもとに描かれた武者小路実篤の青春文学は、いま読んでも、みずみずしい。