かぶとむし日記

映画、音楽、本の感想を中心に日記を更新しています。

実篤が実践したユートピアの昔と今〜南邦和著『実篤、夢の共鳴(レゾナンス)ーー100年目の理想郷(ユートピア)』を読む。

ーーこの道より我を生かす道なしこの道を歩くーー


それが新しき村/人間の誠意が生きる処/人間の真価が通用する処/その他のものが通用しない処/それが新しき村である。


文学者・武者小路実篤が理想郷として作り上げた「新しき村」。紆余曲折を経て誕生したこの村は、いま何処に向かおうとしているのか。100年という時間の中で浮き彫りになった「人類平和共生」の理想と現実を、実篤の文学と人生、そして村の盛衰と共に記録した渾身のルポルタージュ


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AmazonKindle本をなんとなく漁っていて、見つけた1冊。紙の本ではもっと前に刊行されたようだが、Kindle版は、2022年10月に出たばかりだった。



武者小路実篤は、なぜ、新しき村」(以下「村」も同じ)を創立したのか。100年も続いたユートピアは、世界にも例がない、という。「新しき村」だけが、それを可能にしたのはどこに違いがあったのか?


著者は、「新しき村」100年の壮大な歩みを俯瞰しながら、その狭い路地にまで分け入っていく。



武者小路実篤の一行は、新しき村となる土地をあちこち探したが、持ち主との価格が折り合わなかったり、「これだ!」と決定するものがなかった。


しかし、ついに彼らは、日向に求める地と出会う。


日向の土地(宮崎県木城村)を発見したときの喜びを、武者小路は、こんなふうに記している(著書の孫引用です)。

自分達は(中略)偶然ある崖の上に出た。そして不意に視界の開けたのにおどろいた。しかも、その景色はこの世のものとは思えなかった。谷間々々に霞がこめていた。其処に無数の山が夢の島のように浮いていた。その山が皆鋭い輪郭をしていて高さは殆ど同じだった。それはいかにも天孫が降臨しそうに思ったーー。天人が舞いのぼったり、天降ったりしそうな処に思えた。之でこそ日向だ。初めて日向にぶつかったと云う気がした。ーー自分達は狂気(ママ)した。運がいいと思った。ーーここに来て日向は矢張り日向だと思った。この美は他にない。


武者小路実篤『或る男』より)


武者小路実篤の土地選びの感想は、詩人の発想であり、その地が農村開拓にふさわしいかどうかの判断はない。全国から集った多くが、農業は未経験の、武者小路の「人類共生」の考えに賛同した若者たちだった。




「日向の新しき村」。ダム工事に沈む前。





後列中央が武者小路実篤




武者小路自身、農業の知識も経験もまるでなかった。


農業の実作業で、村の開墾をリードしていったのは、川島伝吉野井十であった。「新しき村」が埼玉県の毛呂山市に移ってのち、「日向の新しき村」(宮崎県木城村)は、杉山正が守り続けた。


労働時間は、1日8時間があたりまえの時代に、1日6時間と決めた。


6時間労働では「村」は財政自立できなかったが、実篤はこれを崩さなかった。


一定の労働時間働く。しかしそれ以外は自分の好きなこと、夢中になれること、に時間をあてる。


それが人間らしい生活で、この村の根本の精神だった。それを崩しては「新しき村」ではなく「古き村」になる、と武者小路はいった。


「村」のある人は、絵を描き、ある人は「文章」で何かを表現し、舞台で、実篤作品や世界の戯曲を演じる者たちもいた。創立記念日には、近隣の人々を招き、大々的に仮装行列などもおこなわれた。


自由だった。この「村」は何も強制されない。離村も含めて自由だった(良くも悪くも、頻繁に人が出入りした)。


財政の不足分は、実篤が文(小説、戯曲その他)で、それでも間に合わないときは、友人・知人たちへ借金して、20人〜30人(村の人員は、入村・離村が激しく、なかなか一定しない)の食い扶持を間に合わせた。


「村」には、朝鮮の人も、障害のある人も入村してきた。人種も国も、健常者か障害者かも、入村の条件にはなかった。判断の基準は「人類共生」の志しに共鳴するかどうか、だった。


中国の作家で、魯迅(ろじん。作家、思想家)の弟、周作人(しゅうさくじん)は、1919年(当時日本へ留学していた)、日向の村へ見学にやってきた。そして共鳴し、中国へ帰ったら「新しき村」の支部をつくるといった。


兄の魯迅は、武者小路実篤『或る青年の夢』を中国語に翻訳した。このエッセイは、こんな「理想の国」が実現したら、という若者の夢を描いたものだった。


武者小路実篤は、いずれ「新しき村」は「新しき町」になり、「新しき国」になり、「新しき世界」になると、途方もなく大きな夢を見ていた。人類の知恵が進んでいけば、そうなるしかない、と信じていた。


1976年に、武者小路実篤が亡くなったあとも「新しき村」は続いた。村内の事業も順調にみえた。



しかし、村内の高齢化はすすむ。亡くなる人・離村する人もあって、村内の住民は減少化をたどった。


創立100年(2018年)。


著者(南邦和)が訪問した埼玉県毛呂山の「新しき村」は、村内会員8人になっていた。高齢化で労働力も不足し、主な収入源だった鶏卵や野菜づくりも閉鎖。太陽光熱から得る利益に頼っていた。


武者小路実篤『或る青年の夢』で思い描いた「壮大な夢」からは遠く及ばない。


ダム建設で、「日向の村」の大部分を失い、「村」が埼玉県の毛呂山へ移転したとき、杉山正雄武者小路房子(実篤の最初の妻)と日向に残った。


杉山正雄は、(『村』の精神が生きていれば)「ひとりになっても『村』である」といって、「日向の村」を亡くなるまで守った。


杉山正雄の意志を継いだ松田省吾は、今も家族で「日向の新しき村」に住む。


創立80周年には、武者小路実篤記念館を創設し、100周年には、武者小路実篤の言葉を刻んだ石碑を建てた。


「ひとりでも「村」である」という杉山正雄の言葉は、けっして負け惜しみや強がりではなかった。





西日本新聞の記事。



創立100周年で講演する松田省吾氏(西日本新聞から)。

白樺派の作家武者小路実篤理想社会の実現を目指して開いた農業共同体「新しき村」の創立100周年記念祭が10日、宮崎県木城町で開かれた。町などが建立した実篤の文学碑が披露され、参加した町民ら約400人が村の存続を祝った。


新しき村は1918年、「人間らしく、自己を生かす」という理想を基に、実篤らが木城村(現・木城町)で始めた。39年にはダム建設の影響で住民の一部が埼玉県毛呂山町に移ったが、宮崎の村も「日向新しき村」として残り、現在は両村で計11人が暮らしている。


(2018年11月10日)