ブレイディみかこ著『女たちのテロル』。
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金子文子曰く。
私はかねて人間の平等ということを深く考えております。人間は人間として平等であらねばなりませぬ。そこには馬鹿もなければ、利口もない。強者もなければ、弱者もない。地上における自然的存在たる人間としての価値からいえば、すべての人間は完全に平等であり、したがってすべての人間は人間であるという、ただ一つの資格によって人間としての生活の権利を完全に、かつ平等に享受すべきはずのものであると信じております。
(略)
しかし、この自然的な行為、この自然的の存在自体が、いかに人為的な法律の名の下に拒否され、左右されつつあるか。本来平等であるべき人間が現実社会にあってはいかにその位置が不平等であるか。私はこの不平等を呪うのであります。
(第十二回被告人訊問調書)
この引用のあとに、著者のブレイディみかこ氏は、こう書いています。
まじめな立松懐清(たてまつ・かねきよ)判事を前にしてこれを滔々(とうとう)とぶちあげる二十歳そこそこの娘の姿を想像してほしい。マンスプレイニング*1ならぬ、ウーマンスプレイニングである。判事はこんなに偉そうに思想を説く女を見たことがなかったのだろう。この娘は気が触れたのかと思って精神鑑定が必要だと考えた。
『女たちのテロル』からの引用です。
両親のだらしなさ、無責任さもあって、戸籍にもいれてもらえず、したがって学校へも満足にいけなかった金子文子は、独学で思想を育んでいく。社会の不合理や欺瞞を発見していく。
日本帝国主義はもちろん、キリスト教や社会主義にも共感しかねて、しだいに虚無主義のなかに自分の存在位置を見つけていく。
いま読めばしごくまっとうな思想だとわかる。
山本太郎は街頭演説で「人間は生きてるだけで価値がある」といった。
100年前の金子文子も現代の山本太郎氏も、いわゆる高学歴のひとではない。
でも、権力の虚偽や社会の風潮に惑わされず、まっすぐ本質にたどりつく知性に優れている。
*1:男性が女性を見下すようにして何かを解説すること