かぶとむし日記

映画、音楽、本の感想を中心に日記を更新しています。

成瀬巳喜男監督『稲妻』(1952年)

複雑な家庭環境の下に育った末娘が家を出て自立する中で成長していく姿を描く。バスガイドとして働く清子には2人の姉と一人の兄がいた。しかし、4人とも父親が違った。ある日、長姉夫婦が清子に縁談話を持ちかけるが、清子には姉夫婦の意地汚い魂胆が見え透いてしまいとても話を進める気になれない……。現代なら間違いなく“ドロドロ”の物語となるべきところを、人間の業やサガをありのままに描きながら、表現はあくまでも慎ましく、映画はそうしたすべてを温かく受け入れる包容力を見せ、観終わって清々しささえ感じてしまう成瀬監督の見事なお手並みが堪能できる逸品。


★「allcinema online」の解説より


やっぱり成瀬巳喜男はいいですね。抑制された表現。余白のもつ深い味わい。『稲妻』も、成瀬巳喜男らしい、余韻の残る傑作でした。


佐藤忠男は、『映画の中の東京』という本で、成瀬巳喜男は作品の出来不出来の差が激しい監督だ、というような意味のことを書いていました。


しかし、そうでしょうか。


成瀬巳喜男は、むしろ、傑作はたくさんあっても、失敗作の非常に少ない監督ではないか、とおもうのですが。


名監督で、作品の出来不出来が激しいとぼくが感じるのは、むしろ溝口健二ですが、そのことを話しだすと脱線するので、またの機会に。


清子(高峰秀子)はバスガイド。最初に柳が並ぶ銀座の大通りが映ります。あまり銀座の表通りを映すことのない監督ですけど、主人公がバスガイドだから、珍しく観光的に映ります。



しかし、あとは、いつもの路地。路地で子供が花火で遊んでいたり、小さな橋があったり……。寂れた舞台の設定は、いつものとおり。しかし、その構図は美しいです。


それから、昭和30年代の街並みが映ります。『三丁目の夕日』は、ノスタルジックな視点から描く昭和30年代ですけど、成瀬巳喜男作品は、その時代に創られた現代劇ですから、世相をそのままに描写しているわけですね。


★   ★   ★


三人姉妹は、それぞれ性格が違う。長女・縫子(村田知英子)はガサツで、利に敏い。甲斐性のない夫に愛想をつかすと、金回りのいい実業家・綱吉(小沢栄)の囲いものになる。


次女・光子(三浦光子)は、しっとりした女性。女性らしい気品があって、夫を心から慕っていた。しかし、その信頼していた夫が死んでみると、他の女性に自分の子供を産ませていたことがわかる。


光子は、夫の残した保険金で小さなお店を出そうとするが、結局資金の援助を実業家の綱吉に求め、彼の愛人のひとりになってしまう。


これは、見ていてショックだった。原節子が演じてもいいような光子が、いきなり下品な綱吉の愛人になってしまうのにはびっくりする。


光子が綱吉の愛人になっていることを、成瀬巳喜男は映画では直接描いていない。ある日、家出した清子(高峰秀子)が、光子のお店をたずねると、そこに綱吉がいて、二人の慣れ親しんだ会話から、清子も、観客も、二人がいつのまにか愛人関係にあることを知る。このへんの省略が、みごとです。


三女の清子は、そんな姉たちの姿を見て、もっと何かを探して、今の環境を抜け出したい、とおもいます。


清子は、世田谷へ部屋を借りる。世田谷は、清子が汚れた環境を抜け出る象徴の場所として描かれる。


その世田谷へ母(浦辺粂子)が訪ねてくる。


清子は、


「どうして、わたしたちを、同じお父さんで産んでくれなかったのよ。」


と怒りをぶっつける。


「苦労して育てて、おまえまで、そんなことをいって。わたしは産まなきゃよかったよ」と母。


「産んでくれなきゃよかったのに」と清子。


母親は泣く。清子も泣く。しかし、次の瞬間に、清子は、


「ねえ、お母さん、今日泊まっていかない?」


という。


二人は溜めていた不満を吐き出したあと、もう心はゆるしあっている。


その間合いの絶妙さが、成瀬巳喜男です。


登場する男は、経済的に甲斐性のないダメ男か、あつかましくて、お金で女性を自由にしようとする実業家で、相変わらず、男性に厳しい成瀬巳喜男の特徴も出ています。


それから、この作品については、先にringoさんが、こちらで感想をアップしておりますので、ご紹介しておきます。