かぶとむし日記

映画、音楽、本の感想を中心に日記を更新しています。

高峰秀子著『忍ばずの女』

「忍ばずの女」は、本の前半が、映画についての高峰秀子の感想類がまとめられていて、後半は、彼女がはじめて書いたテレビ・ドラマのシナリオ、『忍ばずの女』が収録されている。


高峰秀子の書いたシナリオは、実在した芸者をモデルに、芸者屋のなかで気丈に生きる女性を描いておもしろかったが、前半に収録された映画の感想類も、高峰秀子の映画についての考え方がわかって、興味深かった。



そのなかで、こんな文章が目にとまったので、書き写してみる。

成瀬(巳喜男)監督が静なら木下(恵介)監督は動。木下監督が躁(そう)なら成瀬監督は鬱(うつ)。一見、正反対のようだけれど、この両監督には根本のところで大きな接点がある。


それは「さも」、つまり「大げさ」「大仰」が大嫌いなところである。俳優は、ときにオーバーアクションに走ることがあるけれど、主役であろうと脇役であろうと、両監督の眼は決してオーバーの<オ>も見逃さない。


私もまた「さも」は嫌いである。俳優は役をもらったらまず、自分がその作品に、どう自然に収まるか、を考えなくてはならない。よく映画評論家に「熱演」などと書かれてウハウハ喜ぶ俳優がいるけれど、熱演に見えるのは、つまり画面からハミ出している、ということで、一言でいえば出しゃばりすぎ、「オマエ、シロートだねぇ」と言われているのと同じこと。俳優にとっては「恥」だと私は思っている。同じように「張り切る」「頑張る」という、なんとなく<下品>な言葉も私は大嫌いである。


言葉の表現力が乏しいわたしは、褒め言葉に「熱演」という言葉を、ついつい使ってしまいがちだけれど、これを読んで、これからは使い方に注意しなければならない、と反省。


高峰秀子がここでいっていることは、日ごろ映画やテレビを見ながらわたしも感じていることなので、共感をもって読んだ。