小津が初めて手掛けたトーキー作品。信州の田舎でたった一人の息子を進学させるために田畑を売り、身をけずって働いた母が、年老いてから東京の息子に会いにやって来る。だが、大学を出て出世していると思っていた息子は夜学の教師にすぎず、妻子とともに貧しい暮らしを送りながら将来への野心も失っていた……。小津が得意とする“親子”ものであるが、絶望的に暗いその世界は戦前の世相を反映していたのであろうか。全体的にトーキー1作目としては音に対する実験的な姿勢はみられず、あくまで現実音とセリフを使っただけのサイレント的演出で終始しており、小津スタイルの祖型となっている。
★「au one映画」の解説から
国で出来のよかった子供が東京へ出て、どんなに偉くなっているかとおもうと、親が思っていたほどではなかった、というテーマは、のちの『東京物語』でも、繰り返されてますね。
戦前は、貧しくとも学問をすれば立身出世できる、という庶民の願望が現実にあったのか、類似したテーマは、小津に限らず、当時の映画や小説に時折見かけることがあります。
いまでは、「立身出世」という響きに、ぼくなどはいやな響きを感じてしまいますけど、当時はもっとストレートに学問の励みになっていたのかもしれません。
ところが20年くらいして、年老いた母(飯田蝶子)が、信州から東京の息子(日守新一)を訪ねてみれば、職業は夜学の教師で、粗末な家に、貧しい暮らしをしています。
★【注】夜学の教師=当時としては、それほどよい職業ではなかったらしいです。今の感覚ではありません。
これも、母の東京滞在記、つまりもうひとつの<東京物語>だともいえます。
しかし、母の失意は、女で一つ、ムリにムリを重ねて上の学校へやっただけに、、、
これが夫の残した田畑を売り払って、身を削るようにして子供を学問させた結果だろうか?
母の失望の大きさは、戦後の映画『東京物語』の比ではありません。
陽気なイメージのある飯田蝶子が、母親役。息子の現状に落胆しながら、それを息子に見せまい、とする心の動きを表情の変化で、演じています。ただ、まだまだ心の動きを表現する方法はストレートで、小津安二郎が後年見せた<心は悲しくても笑顔をみせる>というような複雑な演出は見られません。
ほとんど救いのない作品ですが、隣家の女性が(夫がいなくて、同じく貧しい)、子供がケガして困っているとき、息子は、子供を走って病院へ運んでやり、なけなしのお金をその隣家の女性にあげてしまう……その息子の親切な行動を見て、母は立身出世はできなかったけど、心だけは優しい人に育ってくれたらしい、と少し満足するシーンがあります。
それが、再び信州へ帰る母の心に、わずかな一点の灯りをともしてくれますが、最後まで、母の表情は厳しいまま終ります。
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★【欄外メモ】成人してからの息子役を演じた日守新一は、武者小路実篤がはじめた日向(ひゅうが)の「新しき村」に入村していたことがあります。彼は、武者小路夫人の房子と恋愛し、やがて村を出ますが、武者小路と房子が離婚する一要因ともなっています。房子は、離婚してからも、離村はせず、「新しき村」がダムの建設で、埼玉県の毛呂山へ移ってからも、新しい男性とともに、彼女が亡くなるまで(1990年)、日向の村を守りつづけます。日守新一の出演作で有名なのは、他に黒澤明監督の『生きる』があります。また、黒澤明作品で知られる脚本家・小国英雄も、「新しき村」の出身者です。
【了】