かぶとむし日記

映画、音楽、本の感想を中心に日記を更新しています。

志賀直哉の生き物描写を楽しむ〜ニワトリ編(笑)

鶏(にわとり)の生活をていねいに見ているとなかなか興味があった。母鶏(ははどり)のいかにも母親らしい様子、雛鶏(ひなどり)の子供らしい無邪気な様子、雄鶏(おんどり)の家長らしい、威厳を持った態度、それらが、いずれもそれらしく、しっくりとその所に嵌って、一つの生活を形作っているのが、見ていて愉快だった。


城の森から飛びたつ鳶(とび)の低く上を舞うような時に、雌鶏、雛どりなどの驚きあわてて、木のかげ、草の中に隠れる時、独り傲然とそれに対抗し、亢奮しながらその辺を大股に歩き廻っているのは雄鶏だった。


小さい雛達が母鶏のする通りに足で地を掻き、一足下がって餌を拾う様子とか、母鶏が砂を浴びだすと、揃ってその周りで砂を浴びだす様子なども面白かった。殊に色の冴えた小さい鳥冠(とさか)と鮮やかな黄色い足とを持った百日雛の臆病で、あわて者で、敏捷でいかにも生き生きしているのを見るのは興味があった。それは人間の元気な小娘を見るのと少しもかわりがなかった。美しいより寧ろ艶っぽく感ぜられた。


縁に胡坐をかき、食事をしていると、きまって熊坂長範(くまさかちょうはん)という黒い憎々しい雄鶏が五六羽の雌鶏を引き連れ、前をうろついた。熊坂は首を延ばし、或予期を持って片方の眼で私の方を見ている。私がパンの片(きれ)を投げてやると、熊坂は少し狼狽(あわて)ながら、頻りに雌鶏を呼び、それを食わせる。そしてあいまに自身もその一ト片(きれ)を呑み込んで、けろりとしていた。


志賀直哉「濠端の住まい」より


「私がパンの片(きれ)を投げてやると、熊坂は少し狼狽(あわて)ながら、頻りに雌鶏を呼び、それを食わせる。そしてあいまに自身もその一ト片(きれ)を呑み込んで、けろりとしていた」


この描写は、志賀直哉の生き物描写の真骨頂だ。


ぼくが家で鶏を飼っていたのは、40年以上前。小学生にあがる以前だが、この志賀の文を読むと、その家にいた鶏の生態の記憶があざやかによみがえってくる。



「濠端の住まい」では、この鶏の飼い主である大工夫婦が、ある日鶏舎の鍵をしめるのを忘れたため、鶏たちが猫に襲撃される。


母鶏が、雛たちをかばい猫の犠牲になってしまう。


次の志賀直哉の描写がすごい。


一切の感傷を含まない志賀の眼は、あたり前のことをあたり前のように描いているだけだが、見たものをそのまま書けばいい、なんて安価なものを超えている。

殺された母鶏の肉は大工夫婦のその日の菜になった。そしてそのぶつぎりにされた頬の赤い首は、それだけで庭へほうり出されてあった。半開きの眼をし、軽く嘴を開いた首は恨みを呑んでいるように見えた。雛等は恐る恐るそれに集まるが、それを自分達の母鶏の首と思っているようには見えなかった。ある雛は断り口の柘榴(ざくろ)のように開いた肉を啄ばんだ。首は啄ばまれるたび、砂の上で向きを変えた。


鶏たちを襲った猫は、囮の網にかかり、大工夫婦に殺される。


鍵をかけ忘れた雛たちを猫が襲うのは、<猫の本能=自然の摂理>であってみれば、この小説の主人公<私>は、猫の運命にも同情的だ。


しかし、今は小説のテーマよりも、生き生きと描かれた鶏たちの描写を味わってみたい。