かぶとむし日記

映画、音楽、本の感想を中心に日記を更新しています。

朗読で聴く志賀直哉「真鶴」・・・その2(現在、朗読のサイトは削除されているようです)。

小僧の神様 他十篇 (岩波文庫)
「真鶴」の書き出しは、こうはじまる。

伊豆半島の年の暮だ。日が入って風物総てが青味を帯びて見られる頃だった。十二三になる男の児が小さい弟の手を引き、物思はし気な顔付をして、深い海を見下ろす海岸の高い道を歩いていた。弟は疲れ切っていた。子供ながらに不機嫌な皺を眉間に作って、さも厭々に歩みを運んでいた。しかし兄の方は独り物思いに沈んでいる。彼は恋という言葉を知らなかったが、今、その恋に悩んでいるのであった。


ぼくは、この書き出しが好きで、小説を全部読み返さないときでも、ここだけでもよく読んだ。

伊豆半島の年の暮だ。日が入って風物総てが青味を帯びて見られる頃だった。十二三になる男の児が小さい弟の手を引き、物思はし気な顔付をして、深い海を見下ろす海岸の高い道を歩いていた。


なんて格調高い書き出しの文章だろう。小さな兄弟が出てくる。その兄は、月琴を弾く法界節の女に恋をしている。


少年の恋を、志賀は次のように描く。

(女は)顔から手から真白に塗り立てて、変に甲高い声を張り上げ張り上げ月琴を弾いていた。


(略)


彼はその月琴を弾いている女に魅せられてしまった。女は後鉢巻のために釣り上っている目を一層釣り上がらすように目尻と目頭とに紅をさしていた。そして、薄よごれた白縮緬の男帯を背中に房々と襷(たすき)に結んでいた。彼はかつてこれほど美しい、これほどに色の白い女を知らなかった。彼はすっかり有頂天になってしまった。


真っ白に化粧を塗りたくった女への思慕を「彼はかつてこれほど美しい、これほどに色の白い女を知らなかった。彼はすっかり有頂天になってしまった」と描く。


顔から手から、真っ白に化粧をぬりたくった女性に恋する少年は、傍からみればユーモラスだ。でも、恋は外からみればそういう可笑しさを含んでいるものだ、とおもう。


「真鶴」の少年は、おとながこしらえた少年ではない。小説のなかの兄も弟も、子供の自然な感情のなかで生きている。周囲の自然の一部に、溶け込むように存在している。


小津安二郎監督の『生まれてはみたけれど』や『麦秋』、清水宏監督の『風の中の子供』を見たとき、「真鶴」の子供たちを連想した。小津も清水宏も、志賀直哉のこういう作品に感嘆していたのではないか、と想像する。


伊豆半島は暮れてゆく。少年の心は、行ってしまった女の面影を追いながら、動揺する。夕暮れの風景と少年の寂しさが溶け合う・・・。


次の描写がいい。

・・・沖へ沖へ低く延びている三浦半島が遠く薄暮の中に光った水平線から宙へ浮かんで見られた。そして影になっている近くはかえって暗く、岸から五、六間綱を延ばした一艘(いっそう)の漁船が穏かなうねりに揺られながら舳(へさき)に赤々と火を焚いていた。岸を洗う静かな波音が下の方から聴こえて来る。それが彼には先刻(さっき)から法界節の琴や月琴の音(ね)に聞えて仕方なかった。波の音(おと)と聞こうと思えばちょっとの間それは波の音になる。が、丁度(ちょうど)睡(ねむ)い時に覚めていようとしながら、不知(いつか)夢へ引き込まれて行くように波の音は直ぐまた琴や月琴に変って行った。彼はまたその奥にありありと女の肉声を聴いた。


この小説の話をしていると、むかしから全部引用したくなってしまう(笑)。書き出しから最後の一行まで、全部が緊密に構成され、詩的で、自然に流れ、美しい。



【追記】tougyouさんがコメントで指摘されている以下の部分も、じつに美しい。何度読んでもその美しさに撃たれてしまう。明治時代の話なのに、情景が目に浮かぶ。

夜が迫って来た。沖には漁火が点々と見え始めた。高く掛かっていた半かけの白っぽい月がいつか光を増して来た。が、真鶴まではまだ一里あった。ちょうど熱海行きの小さい軌道列車が大粒な火の粉を散らしながら、息せき彼らを追い抜いて行った。二台連結した客車の窓からさす鈍いランプの光がチラチラと二人の横顔を照らして行った。