かぶとむし日記

映画、音楽、本の感想を中心に日記を更新しています。

型を破ってゆく〜「志賀直哉対話集」より


小津安二郎は『晩春』を撮るとき、「自分には随筆を書くようなつもりだ」と、いった(杉村春子の言)。


小津安二郎の映画は、戦後ますますストーリー性が希薄になって、いわゆる一般的な映画から離れていく。それを小津は「随筆」と表現したのかもしれないし、話の展開を簡略化して、登場人物の、こまやかな心の揺れ動きを描くことを、「随筆」に例えてみたのかもしれない。


小津は、先輩や同時代の映画人以上に、志賀直哉を敬愛していた。次のような志賀の発言は、小津安二郎の映画づくりにおいても、同じおもいがあったのではないだろうか。

志賀:映画などを観ていてばかばかしくなり、また不愉快になるのは、起こさなくてもよい不幸を起こすことなんだ。愚かしいいろいろの曲折を経てそういうことをやってゆくんだが、見ていてイヤになる。ああいうものは、僕らにはどうしたって書けないね。


(略)


だから、僕らの小説がだんだん普通のいわゆる小説とは離れてきたんでね。それから、もう一つ。いわゆる小説なら小説というアレがあるだろう、それから離れたい離れたいという要求が、僕らには非常にあったね。・・・絵の方だって、今迄のアレから離れようとして、今迄の絵からどんどん・・・(略)・・・型を破ってゆく絵がどんどん出てきているわけだね。


本格小説とか何とか言うが、それなら、昔からあるのだからね。なるたけ、それから離れたい離れたいという要求で、僕らはやっているのだけれど、しかしそれを喜ばんね。文学に関しては・・・。


尾崎一雄:西洋流に<ロマン>だとか<ヌゥヴェル>だとか言って規格を定めましてね。それに適応しないものは随筆であるとかエッセイであるとか言って、変に攻撃するのですけれどね。・・・要するに、文学的感動があれば、それで文学として通るのではないかという考えを、私達は持っているのですけれどね。


志賀:そうそう。なるたけ、そういう規格から離れて、それでいてやはり、今言ったような感動がちゃんとあって、生きたものをやりたいという要求でやっているんだよ。


文学を映画に置き換えてみると、小津安二郎の映画作法と重なってくる。