かぶとむし日記

映画、音楽、本の感想を中心に日記を更新しています。

小津安二郎の映画に見え隠れする志賀文学


id:tougyouさんが、ブログ(2006年3月8日)で、映画「東京物語」の素晴らしいシーンを、セリフによって再現してくださいました。読んでいると、映像がなくても、まざまざと名場面が思い出されます。

そのコメント欄に、tougyouさんは「小津安二郎尾道でも広島弁の勉強をしっかりとしたようですが、やはり志賀直哉と係りのあるこの地という思いも強いのでしょうね」と書かれています。今回は、ここだけに反応します(笑)。


小津安二郎と里見とんの交流

【注】:「とん」という漢字が変換できません。こちらを参照してください。



【写真】:複数の女性を、浮気ではなく「まごころで愛する」独自の文学を書き綴った里見とん


小津安二郎は、里見とんを「中先生」、志賀直哉を「大先生」と呼び(直接本人相手にそう呼んだとはおもえませんが)、二人の白樺派作家と親しく接していたようですが、その接し方は、随分ちがっていたようです。

気さくな里見とんとは、ともに鎌倉に住み、小津はしばしば里見家におもむいて、酒宴酒宴酒宴……。15歳の年齢の違いを超え(小津が下)、二人は、心の通うお酒の仲間であったようです。二人は、酒豪でしたが、最後には酔いつぶれてしまうこともあるようで、里見家の、お膳に突っ伏して眠っている小津の写真が残っています(笑)。

名前を忘れましたが、里見とんの息子さんが、「父は小柄なので寝床へ運ぶのは簡単でしたが、小津先生は身体が大きかったので、寝てしまうとそのまま布団をかけて休んでいただきました」(正確な引用ではありません)、なんてことをいっています。酒好きな、気どらない二人の関係があらわれているお話です。

小津の戦後の方向を決定したといわれる「晩春」は、広津和郎の「父と娘」が原作とされていますが、里見とんの作品もヒントに使われていたそうです(ぼくは、「晩春」と里見とんの作品と照合していませんが)。しかし、それを映画でクレジットしていないので、小津が里見とんにお詫びに伺ったところ、里見の全然気にしない、気さくな対応に惚れ、一気に二人は意気投合してしまった、なんてエピソードがあります。

里見とんという作家(人間)を知れば、いかにもありそうなことだな、となっとくがいきます。小津は、そのお詫びもこめて、その後里見とん原作で「彼岸花」や「秋日和」を撮りました。しかし、里見とんの小説と、小津安二郎野田高梧の共同シナリオは、同時進行で書かれたもの。簡単なスジだけをあらかじめ相談して、あとは同じタイトルで、勝手にそれぞれ書きあった、というわがままな原作と映画化であったようです。おもしろいことをやりますね。


小津安二郎志賀直哉



【写真】:志賀直哉の小説も会話が短い


こういう気さくな交流は、小津と志賀にはなかったでしょう。笠智衆は、志賀直哉が撮影の見学に来た時のことを話しています。

つねに撮影中は絶対的な存在である小津が、志賀直哉があらわれると、顔をあからめ、生徒が特別な恩師に接するように、丁重に対応しているのを見て、笠智衆はおどろいたそうです。

小津は、従軍中に「暗夜行路」を読み、志賀直哉を深く敬愛するようになったようですが、同時に、志賀作品は、映画にはできない、映画にしてはならないものだ、と、心におもうところがあったようです。それがなぜなのか、説明できるようでもあり、本人にもっと詳しく聞いてみないことにはわからないようでもあります。

しかし、次の点で、小津安二郎の映画の中に、志賀文学の特徴が見え隠れします。


■会話の簡潔さ

志賀直哉の小説は、会話で、スジや人物の心情を説明することをしません。従って、現実の会話のように短くてそっけないものになります。登場人物が、とうとうと長広舌をしゃべる、なんて作品はありません。

志賀直哉の会話を、ギリギリ小津流につめたところに「ああ」、「いやあ」の、簡潔なセリフが誕生した可能性があります。「あっちかい、東京」のような逆転した言い回しも、志賀文学のにおいがします。しかし、このへんは、志賀文学との具体的な照合が必要なところですね。いまは、ただ指摘することにとどめます。


【注】:ぼくは、はじめて小津映画の「秋刀魚の味」をテレビで見たとき、何の予備知識もなく、「この会話は志賀直哉じゃないか」と直感しました。それは、はずれてはいないとおもいますが。


■子供は「素」のままで描かれる

志賀直哉の作品に「子供三題」という小品があります。スジもなにもなく、元気なワルガキが、火鉢の灰をかきまわしていて、祖母に注意されると、その祖母を「クソばばあ」と罵倒して逃げたり、また別の子が、野原で遊んでいるところへ、機関車がとおりかかると、なにか大きな声で叫びながら、持っていた棒を振り回しながら、その機関車を追いかけていく……そんな日常の断片を書き綴ったものです。いいとか悪いとか、子供はいたずらなくらい活発な方がいいとか、というのではなく、志賀直哉は、子供の行動をただおもしろがっているだけの作品です。志賀直哉の小説には、子供がよく登場しますが、すべてこの「素のまま」系列にあります。


【注】:子供を描いた名品としては「真鶴にて」がある


小津映画も、「生まれてはみたけれど」、「お早よう」のような、子供が主人公の作品はもちろんですが、全般に、映画に登場する子供は、どれもストーリーによって左右されない、志賀直哉系列の「『素』のままの子供」ばかりです。突貫小僧という芸名の子役で活躍した青木富夫は、「おれは撮影所で遊んでいただけ。とくに何かやるように小津さんからいわれた記憶はない」(大意)……後年、そんなことをいっています。


【注】:麦秋」の子供の描写も、鮮やかです


■「暗夜行路」と「東京物語

暗夜行路〈前篇〉 (岩波文庫)
1959年、豊田四郎は「暗夜行路」を映画化しました。時任謙作が池部良で、妻の直子は、山本富士子が演じました。実際に見ましたが、「暗夜行路」のダイジェスト版をつくってどうするのさ? というくらいつまらない映画でした。もちろん、小津もこれを見ています。小津は「天に唾吐く行為」と吐き捨てました。では、小津は、もっとも愛した小説「暗夜行路」を、ついに自分の映画で描かなかったのか。

そこで、tougyouさんのご指摘へ戻ります。tougyouさんいわく「小津安二郎尾道でも広島弁の勉強をしっかりとしたようですが、やはり志賀直哉と係りのあるこの地という思いも強いのでしょうね」


ぼくも、「東京物語」の老夫婦の住まいを尾道に選択したのは、志賀直哉の「暗夜行路」の尾道の描写が念頭にあったとおもいます。実際に、映画が映す尾道の情景は、「暗夜行路」で時任謙作が眺めた光景と重なります。tougyouさんがご指摘されたように、小津安二郎は、「東京物語」で尾道を撮影しながら、もっとも愛した小説「暗夜行路」のシーンを思い描いていたのではないでしょうか。


■「暗夜行路」と「風の中の牝鶏」

もう1つ。「暗夜行路」では、妻直子の1度だけの(性的な)間違いを、謙作は頭の中では許しながら、心と身体(本能)で許せない葛藤に苦しみます。それが、自身意識しないまま、列車に乗ろうとする直子を突き飛ばす、という思いもかけない行動に謙作を突き動かすことになります。

小津は、これとそっくりのシーンを「風の中の牝鶏」でやりました。夫が出兵から帰らず、うまれた赤子にミルクもやれない苦境から、妻は、1度だけからだを売って生きるためのお金をつくります。ところが、まもなく夫が復員してきます。

妻は夫に正直に告白し、夫はそれを許しますが、ある日思いがけず、妻を階段から突き落としてしまいます。頭では妻を許していても、心と身体が妻を拒絶する、衝撃的なシーンでした。小津作品には、これほど劇的なシーンはめったにみあたりません。そういう固有の小津スタイルを崩しても、小津はこれを映像化したわけですが、そこに、ぼくは「暗夜行路」への想いがあったとおもいます。


tougyouさんのご意見を思いっきり、わがままに引き寄せて、気になっていたことを整理させていただきました。すでに、映画評論などで指摘されていることかもしれませんが、それはそれで構わないというところが、ブログの気安さですね(笑)。