かぶとむし日記

映画、音楽、本の感想を中心に日記を更新しています。

阿川弘之著『志賀直哉 下』を読む。

志賀直哉〈下〉 (新潮文庫)

志賀直哉〈下〉 (新潮文庫)



途中あいだがあいたけど、阿川弘之の『志賀直哉 下』を読了。「下」は、「上」以上に登場人物は豊富だ。上巻では、志賀直哉の祖父、祖母、父、義母など肉親や、雑誌「白樺」の交友関係などが描かれていたが、後半は武者小路実篤、里見弴、梅原龍三郎などの白樺仲間の交流にくわえて、瀧井孝作尾崎一雄網野菊、直井潔、そして著者自身も登場し、この本の志賀直哉への密着度が増す。


まず志賀直哉唯一の長篇『暗夜行路』をめぐる詳細な分析がおもしろい。


この長篇は、細部は志賀直哉らしい綿密な描写で描かれているけれど、書き出して完結するまでに26年もかかっているために、年月の経過や登場人物の年齢などに「あれ?」というような矛盾が出てくる(といわれている)。志賀直哉という作家は、そういう長い集中力を維持する根気に欠けているのではないか、という指摘はこの本のなかでも、しばしば出てくる。


そこで著者は、「暗夜行路年譜」というのを作成する。小説のなかの出来事や登場人物に起こったことを順に年譜に作成して、この小説がいつの時代を背景に描かれているのか追跡しようとする試み。


志賀直哉が生きていて、自分の弟子がこんな粗探しをやろうとしたら、なんというだろうか、それを想像するだけでもゆかいだけれど、著者はその「許されない研究」のため、『暗夜行路』を熟読の上に熟読。そして、さまざまな解決できない「矛盾点」を掘り起こす。どの『暗夜行路』否定論や批判論よりも、具体的な疑問が整理される。


著者は疑問点についての自分の感想はそれほど書かない。


『暗夜行路』は、粗をさがせばいっぱい出てくるさ、だから、それを誰よりも詳しく実践してみたんだ、しかしこの作品の稀有な魅力はそんなところにはないんだよ、と暗黙の主張をしたかったのかもしれない。


それもそうだが、あるいは、こういう機会に師志賀直哉の労作『暗夜行路』の「矛盾・疑問」を、洗いざらいさがすだけさがしてみようか、という「いたづら心」も少しあったかもしれない(笑)。そういう「いたづら心」は、師の志賀直哉も弟子の阿川弘之も、けっして嫌いではなかった、とわたしはおもっている。



上下巻を通して読むと、志賀直哉が、普通の日常を大切に生きてきたことが実感できる。明治・大正・昭和、という長い歴史を生き、88年の生涯を通して変わることなく、権威と迷信と不自然なことを嫌い、文壇の名声や栄誉に背を向け(と、いうより関心がうすい。自称なまけものというように、そういう雑事や人事がめんどうだったのだろう)、1日1日を自分の感性・信条に忠実に生きることを望んだ。晩年は、小説家として生きるよりも、生活者として、精神の充実を上位においた。



里見弴、武者小路実篤との交流は、上下巻に共通して登場する。この長くて深い交流が、志賀直哉の臨終と葬儀に至って感動のピークに達する。とりわけ里見弴との「最期の別れ」は、涙ぐまずには読めない。


病院のベッドのなかで、直哉はすでに朦朧としている。近親のものを判別することもあやしくなっていた。そこへ、里見弴がやってくる。この場面は長いけど、引用しておこう。

つかつかと枕元へ歩み寄るなり、
「伊吾(いご)だよ」*1
弴は言った。直哉は「伊吾」の来ているのが分ったようであった。酸素マスクの下で、荒い息をしながらしきりに口を動かし始めた。何を言わんとしているか、全く分らないのだが、弴翁は自分の片手を直哉の額にあて、もう一方の手で直哉の手を握り、
「うん、うん、そうかそうか。うん、うん」
 幾度も幾度もそれを繰り返した。
 そのうち、ベッドのそばを離れて、私を物かげへ呼び、小声になった。
「生馬が聞いてショックを受けてね、連れて行ってくれと言うんだが、志賀君の方もショックだと困るし、まあまあと言って、一緒に来なかったよ。あらためてということにしてあるが、君、それでいいだろ?」
 私どもの口さしはさむべき事柄ではないような気がしたが、一応、
「それで結構かと存じます」
と答えた。
 やがて又、枕元へ近づき、「うん、うん、うん、そうか、うん」が始まった。感無量の思いで見ているうち、弴はたまりかねたように、つと、窓べへ走り寄り、後向きの姿勢のまま、肩を震わせ両手で顔を覆って号泣した。



著者が接しているときの志賀直哉の会話は、読みやすいように整理されていない。語尾にくっつく「ネ」まで記述して、人間志賀直哉のしゃべり方を、読者にぢかに感じてもらおう、という忠実な文字起こしに徹っしている。


師を高見から見下ろすことはもちろんないけれど、必要以上に崇め奉ることもない、その距離感がちょうどいい。


こんなすばらしい伝記に(ところどころ「いたづら心」が仕掛けられているにしてもね)描かれた志賀直哉は幸福だろうが、この本に出与えた読者も幸運だな、とおもった。



志賀直哉 上』の感想↓
http://d.hatena.ne.jp/beatle001/20160222

*1:伊吾というのは、雑誌「白樺」を発行したころの里見弴の呼び名。本人も、志賀直哉もそう呼んでいた。伊吾という名前には、二人のなかでしかわからない、いろいろな共通の思い出があるだろう、と想像する。