かぶとむし日記

映画、音楽、本の感想を中心に日記を更新しています。

ボブ・ディランがノーベル文学賞をとった。



きのうの夜、ネットでニュースを見ていたら「ノーベル文学賞ボブ・ディラン」という記事が目にとびこんできた。以前からボブ・ディランが何度かノーベル文学賞にノミネートされているという話はきいていたけれど、ボブ・ディランのファンを自称していながら、英語がわからないので文学賞の実感はわかなかった。とってくれたらおもしろいけど、とれなかったからどうということもない。だいたい今年は、ノーベル賞にディランがノミネートされていたことも知らなかった。


ノーベル賞そのものにもあまり関心もなかったくせに、ボブ・ディラン受賞のニュースを知ると現金なもので、うれしくなって知人に電話やメールで連絡したりした。英語がわからなくて、ディランの詩が理解できなくても、その手触りくらいは感じとれる。ディランの詩を黙読したことはないが、サウンドと歌にのって、50年以上も繰り返し聴いてきたからね。


気になるのは、ディランをテレビや新聞で紹介されると、いまだに1960年代の公民権運動がどうで、「風に吹かれて」の作曲者で、反戦運動に大きな影響を与えた・・・なんて紹介になってしまう。しかたがないのかもしれないけれど、ボブ・ディランのファンとしては過去の偉大なひと扱いにおもえて、なんだかなっとくがいかない。


ボブ・ディランはいまもバリバリの現役で、ニュー・アルバムを出し続け、年間100回くらいのコンサートをこなしている。ディランのコンサートを見たひとなら知っていることだけれど、ディランはセットリストを過去のヒット・ソングで組まない。ほとんどが最新のアルバムかその前か、といった近年のレコードで構成されている。これだけの経歴をもったミュージシャンではめずらしいとおもうし、実際過去のディランを懐かしくおもってコンサートへいったひとは失望してしまうかもしれない。ディランは、いつも今現在の感覚でライブをこなしている。


ディランが賞賛されるのはうれしいけれど、過去のことばかりではなく、いま現在のボブ・ディランが1枚1枚瑞々しいアルアムを発表し続けていることもスポットをあててほしい、とおもう。


きのうからきょうまでずっと50年間にわたるディランのさまざまな時代の楽曲を聴いている。しかしいくら聴いても聴ききれないほど膨大な量だ。


レコード・ジャケットのボブ・ディランは、たいてい迷子になったような不安な目をしている。しかし、かとおもうと、別のレコードの顔は強い自信がみなぎっている。ディランの表情は、彼の音楽のように刻々と変化していく。


ここ2枚はスタンダード・ナンバーのカバーが続いたけれど、次に出る新作アルバムはどうなっていくのか。50年以上聴いているけれど、ボブ・ディランの思惑は予測できないまま。