3月17日、土曜日。
妻がアパートへきて、掃除してくれる。台所とトイレだけで、本棚からこぼれている本の整理は、後日に。入れ物がなければ、片付けようもない。
近くのインドカレー屋さんでお昼を食べ、新宿へ向かう。「紀伊国屋サザンシアター」で、「青年劇場」の『きみはいくさに征ったけれど』(大西弘記=作、関根信一=演出)を見る。
この劇場は、はじめて。新宿駅南口で降りたけれど、すぐには場所がわからず、案内係りの女性にたずねて、やっとたどりついた。
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竹内浩三のことは、このブログでもなんどか書いた気がする。伊勢のひとで、映画監督をめざして、日本大学専門部(現芸術学部)映画科で学んだ。先生には、伊丹万作(伊丹十三の父)などがいた。
1942年(昭和17年)、半年繰り上げて日大を卒業。徴兵により、三重県久居町の「中部第38部隊」に入営。その後、茨城県筑波の「滑空部隊」に転属。ここでの日々の様子は、竹内浩三の「筑波日記」で読むことができる。
浩三は、およそ軍人らしくない覚悟の決まらない自分と向かいあい、その苦しみと悩みを日記に書いて(見つからないように、トイレなどで隠れて書いた)、それを分厚い本をくりぬいて、そのなかに手帳をはさみ、郷里の姉に送った。これが浩三の軍隊生活の貴重な記録になっている。
「筑波日記」を読むと、浩三が、軍国の時代、戦争の時代にあっても、人間らしい心を失わなかったことがわかる。いっそ軍国主義に自分をなじませたら、どんなに楽になれたかしれないが。しかし、浩三の手記は、どこかひょうきんでユーモアがある。それは、詩でも日記でもそう。だからこそ、その奥にある軍隊生活のやりきれなさ、戦争という殺し合いを前にした苦しみが伝わってくる。
竹内浩三は、1945年(昭和20年)、4月9日、フィルピン、ルソン島で戦死したといわれるが、定かではない。姉のもとに届いた箱はからっぽだった、という。23歳だった。
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竹内浩三の詩を2つ引用しておこう。
学生時代には、こんなひょうきんな詩を送って、両親が早逝して親代りでもある姉の<こう>に、お金をせびっている。
金がきたら
金がきたら
ゲタを買おう
そう人のゲタばかり かりていられない
金がきたら
花ビンを買おう
部屋のソウジもして 気持ちよくしよう
金がきたら
ヤカンを買おう
いくらお茶があっても 水茶はこまる。
金がきたら
パスを買おう
すこし高いが 買わぬわけにもいくまい
金がきたら
レコード入れを買おう
いつ踏んで わってしまうかわからない
金がきたら
金がきたら
ボクは借金をはらわなければならない
すると 又 なにもかもなくなる
そしたら又借金をしよう
そして 本や 映画や うどんや スシや バットをに使おう
金は天下のまわりもんじゃ
本がふえたから もう一つ本箱を買おうか
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兵隊へいく前の心境をうたった詩。この演劇のタイトルのもとに、なっている。
ぼくもいくさに征くのだけれど
街はいくさがたりであふれ
どこへいっても征くはなし 勝ったはなし
三ヶ月もたてばぼくも征くのだけれど
だけど こうしてぼんやりしている
ぼくがいくさに征ったなら
一体ぼくはなにをするだろう てがらたてるかな
だれもかれもおとこならみんな征く
ぼくも征くのだけれど 征くのだけれど
なんにもできず
蝶をとったり 子供とあそんだり
うっかりしていて戦死するかしら
そんなまぬけなぼくなので
どうか人なみにいくさができますよう
成田山に願かけた
中央が浩三、右端は、姉の<こう>(「青年劇場」のパンフレットから)。
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演劇「きみはいくさに征ったけれど」は、竹内浩三が主役というわけではなく、学校でいじめを受け、自殺をしようとする学生が中心になっている。
みずから死のうとする学生と、もっと生きたくても、国家の要請で死ななければならなかった学生が、時代を超えて出会う。そこから、生と死のテーマがみえてくる。
おもしろく見たけれど、わたしのように竹内浩三を中心に見ようとしてきたものには、浩三の苦しみがもうひとつ伝わってこなかった。