12月16日(水)。
「イオンシネマ板橋」へ、松居大悟脚本・監督『ちょっと思い出しただけ』を見にいく(この映画の話は後日に)。
12時55分上映まで、「コメダ珈琲店」で、コーヒーとトーストの軽い昼食。1時間30分ほどタブレットで本を読む。
読んだのは、『文豪怪奇コレクション 恐怖と哀愁の内田百閒』から「サラサーテの盤」。
内田百閒は、夏目漱石のお弟子さん。
鈴木清順監督の映画『ツゴイネルワイゼン』の原作として読んだのがはじめ、その後も何度か読み返している好きな短編。
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内田百閒の怪談は、日常と非日常が交錯して、境界がはっきりしない。そもそもこれを怪談といったらいいのかどうか。
「サラサーテの盤」は、亡くなった友だち・中砂(なかさご)の奥さん(おふさ)が夕方になると、子供を玄関の外に待たせ、むかし中砂がこれこれの本をお貸ししたが、それを返して欲しいとやってくる。
「私」のほうはその本をすっかり忘れていたので、恐縮しながら本棚からさがしてお返しする。しかし、こんな専門書を「私」が中砂から借りていることを、どうして彼女が記憶しているのかふしぎだった。
すると翌日も、同じ時間にやってきて、洋書のタイトルを正確に発音して、「お貸ししているはずですが」という。「私」は、「あがっていきませんか」というが、あいまいな返事をして、その本だけを受けとって帰っていく。
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中砂(なかさご)に借りたヴァイオリニスト・サラサーテのレコードが別の友達から返されてきたので、用事のついでに中砂の家に届けにいく。
このレコードは「ツゴイネルヴァイゼン」の途中でサラサーテの声(雑音)がはいってしまった録音の失敗のため、逆に貴重な盤だった。
この日、中砂の奥さんは、生前中砂が飲み残した2本の麦酒を、「私」にすすめる。
最後のところを引用します。
飲み終わって一服していると、永年の酒敵がいなくなってお気の毒様と云うようなくつろいだ愛想を云った。
持って来てやったサラサーテの盤のことを思い出したらしく、私が包んで来た紙をほどいて盤を出した。それから座敷の隅に風呂敷をかぶせてあった中砂の遺愛の蓄音器をあけて、その盤を掛けた。古風な弾き方でチゴイネルヴァイゼンが進んで行った。はっとした気配で、サラサーテの声がいつもの調子より強く、小さな丸い者を潰している様に何か云い出したと思うと、
「いえ。いえ」とおふさ(中砂の奥さんの名前)が云った。その解らない言葉を拒む様な風に中腰になった。
「違います」と云い切って目の色を散らし、「きみちゃん、お出で。早く。ああ、幼稚園に行って、いないんですわ」と口走りながら、顔に前掛けをあてて泣き出した。
ふしぎな終わり方。そもそも全体がよくわからない。中砂の奥さん・おふさは、生きているのか死んでいるのか、それもはっきりしない。
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このふしぎな感覚を鈴木清順監督が『ツゴイネルワイゼン』というタイトルで1980年に映画化している。
原作が短編なので、かなり脚色している、
ロケ地は鎌倉。
鎌倉の「切通し」を主人公の青地はなんども行き来するが、「切通し」がこの世とあの世のかけ橋のようにも感じられる。
この切り通しは、「釈迦堂切通し」で撮影されている。わたしは鎌倉散歩のときにいってみたが、落石事故の危険あり、ということで通行禁止になっていた。
釈迦堂切通し。ネットから拝借しました。
鈴木清順は「サラサーテの盤」を傑作映画に仕立てた。内田百閒の曖昧模糊とした「幻想」の味わいをそのまま残し、映画ならではの絢爛豪華な映像美を原作にプラスした。
そういえば、この映画の登場人物全員が「生きているのか死んでいるのか?」わからない不可解な作品だった。
鈴木清順監督の最高傑作といわれている。
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内田百閒の「サラサーテの盤」、鈴木清順監督の『ツゴイネルワイゼン』に寄り道したら長くなってしまったので、映画『ちょっと思い出しただけ』は、後日に(笑)。