漱石山房記念館(新宿観光振興協会より拝借)。
6月18日土曜日。晴れ。
早稲田の「漱石山房記念館」で、Tさんと待ち合わせる。午後2時の集合より早く着いたら、先にTさんが来ていた。
漱石終焉の地に「漱石山房記念館」ができてから(2017年9月24日オープン)、これで3度目の訪問。
漱石の弟子たちが集まる「木曜会」なども、この地で行われていた。
暑い中を歩いてきたので、まずは記念館のなかにはいってコーヒーでひと息。
Tさんは、職を辞してから、散歩と読書と碁を中心に暮らしている、という。羨ましい限り。わたしも、あと1〜2年で「隠居」できたらいいなあ、とおもっている。
「隠居願望」は20代からだが、生活がなかなかそれを許してくれないまま、いまだ達成できずにいる。
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1階には、漱石の書斎が再現されている。
漱石の書斎。
再現された漱石山房記念館の書斎。
2階には、今回の企画展示なのか、『道草』の草稿が並んでいる。
夥しい書き入れや修正がある。
パソコンで原稿を書くのが通常になったいまでは、こうした作家の苦心の跡がたどれるような原稿を見ることができない。
作家自身は、見られるのを歓迎しないかもしれないが、ファンにとって、好きな作家の自筆原稿は味わい深い。
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『道草』は、自伝的な小説。
幼少のころあずけられた先の養父が、イギリス留学から帰国した健三(漱石)のところへお金をせびりにくる。
まだ作家・夏目漱石ではなく、高等学校の教師・夏目金之助だったころ。
健三は、この養父がむかしから好きでない。
が、なんのかんのとお金をもらいにくる。証文とか契約書とかがあるわけではない。それとなくやってきて、むかしの恩義をちらつかせながら、せびっていく。
この小説は、エンディングの箇所がよく知られている。
健三(漱石)は、百円のまとまったお金を養父に渡し、これから一切の関係を終わりにする、というような証文を書いてもらう。
その証文を大事に箪笥の引出しにしまいながら細君がいう。
「まあ好(よ)かった。あの人だけはこれで片が付いて」
細君は安心したといわぬばかりの表情を見せた。
「何が片付いたって」
「でも、ああして証文を取って置けば、それで大丈夫でしょう。もう来る事も出来ないし、来たって構い付けなければそれまでじゃありませんか」
「そりゃ今までだって同じ事だよ。そうしようと思えば何時でも出来たんだから」
「だけど、ああして書いたものをこっちの手に入れて置くと大変違いますわ」
「安心するかね」
「ええ安心よ。すっかり片付いちゃったんですもの」
「まだなかなか片付きゃしないよ」
「どうして」
「片付いたのは上部(うわべ)だけじゃないか。だからお前は形式張った女だというんだ」
細君の顔には不審と反抗の色が見えた。
「じゃどうすれば本当に片付くんです」
「世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない。一遍起こった事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変わるから他(ひと)にも自分にも解らなくなるだけの事さ」
健三の口調は吐き出すように苦々しかった。細君は黙って赤ん坊を抱き上げた。
「おお好い子だ好い子だ。御父さまの仰ゃる事は何だかちっとも分かりゃしないわね」
細君はこういいいい、幾度(いくたび)か赤い頬に接吻した。
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漱石は慶応3年(1867年)に生まれ、大正5年(1916年)、この記念館の地で、没している。49歳だった。
漢文や英語を自在にあやつった。
また、流麗な草書体で書かれた手紙を、友人や弟子たちに送っている。
漱石には、味わい深い内容の手紙が多く、候文(そうろう文)のなかに江戸っ子の「べらんめえ口調」がまじって、痛快でもある(小説『坊ちゃん』を思い出してください)。
あったかい。筆まめなひとでもあった。
「漱石の書簡」を、小説と同等に、高く評価する文芸評論家もいる。
展示物を見ながら、わたしは、
「49歳だよ、亡くなったのは。われわれよりずっと歳下だ。参っちゃうな。なんだろ、この差(笑)」
「だよな、○○ちゃん」とTさんが笑った。