かぶとむし日記

映画、音楽、本の感想を中心に日記を更新しています。

映画化された『それから』(夏目漱石原作)。



2023年の末、偶然You Tubeのなかに、森田芳光監督の映画『それから』(夏目漱石原作)を見つけた。予告編ではなく、全編。テレビにつないで、妻と見た。


わたしは、この映画を何度も見ている。映画館でも2回見たし、そのあとも、レンタル・ビデオで複数回見ている。


それでも、ひさしぶりなので新鮮だった。妻も、以前見ているはずなのに、はじめて見たように「いい映画だね」と感心していた。




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『それから』が上映されたのは、1985年。約39年前。そんな前だったのか、とおもう。


夏目漱石の小説は、『坊っちゃん』、『吾輩は猫である』、『こころ』は、何度か映画化されている。しかし、『それから』は、はじめてだった。


小説の内容は、「ふたりの男性(代助・平岡)とひとりの女性(三千代)」の三角にもつれた恋愛を縦軸に、加えて、漱石の、明治という時代への辛辣な文明批評が、全体にわたってちりばめられている。


人物の動きが少なく、心情描写の多い小説なので、映画にはなりにくい作品だと思っていた。それを森田芳光監督は、当時、アクション俳優のイメージが強い松田優作主演で撮ると発表した。


『それから』は、好きな小説なので、映画化はたのしみだったが、期待はしてなかった。


しかし、封切られると、びっくりした。期待の3倍も4倍もよかった(小説との比較ではない)。


主人公代助の松田優作は、過剰な演技をしない。ボソボソとしゃべる、それがいい。


友人の平岡を演じたのは、小林薫。やや平岡がデフォルメされているが、それがおもしろい。


そして、三千代を演じた藤谷美和子。触れると消えてしまいそうな淡い美しさ。


会話は、基本的に原作を踏襲している。漱石が描いた、明治の気品ある話し言葉が蘇る。


思えば、俳優がどうみごとに演じても、会話が現代言葉では、興をそがれる。傑作にはなりにくい。森田芳光監督は「明治言葉」で、全編を突破する。



森田芳光監督は、これまでも、実験的な要素を、娯楽作品にすべりこませてきた。


そのころ、『の・ようなもの』(1981年)、『家族ゲーム』(1983年)と新鮮な秀作が続いていた。


『それから』は、堂々と漱石文学の正門を通りながら、同時に、森田マジックも映画に昇華されていた。



【原作メモ1】


新時代の青年代助と、江戸時代を生きてきた父との対比。漱石の文章には、諧謔(ユーモア)がまじる。

親爺(おやじ)は戦争に出たのを頗(すこぶ)る自慢にする。稍(やや)もすると、御前抔(おまえなど)はまだ戦争をした事がないから、度胸が据らなくつて不可(いか)んと一概にけなして仕舞ふ。恰(あたか)も度胸が人間至上な能力であるかの如き言草(いいぐさ)である。代助はこれを聞かせられるたんびに厭な心持がする。胆力は命の遣り取りの劇(はげ)しい、親爺の若い頃の様な野蛮時代にあつてこそ、生存に必要な資格かも知れないが、文明の今日から云へば、古風な弓術撃剣の類と大差はない道具と、代助は心得てゐる。否、胆力とは両立し得ないで、しかも胆力以上に難有(ありがた)がつて然るべき能力が沢山ある様に考へられる。御父さんから又胆力の講釈を聞いた。御父さんの様に云ふと、世の中で石地蔵が一番偉いことになつて仕舞ふ様だねと云つて、嫂と笑つた事がある。


(略)


代助は考へる。彼は地震が嫌(きらい)である。瞬間の動揺でも胸に波が打つ。あるときは書斎で凝(じっ)と坐つてゐて、何かの拍子に、あゝ地震が遠くから寄せて来るなと感ずる事がある。すると、尻の下に敷いてゐる坐蒲団も、畳も、乃至(ないし)床板も明らかに震へる様に思はれる。彼はこれが自分の本来だと信じてゐる。親爺(おやじ)の如きは、神経未熟の野人か、然らずんば己れを偽はる愚者としか代助には受け取れないのである。




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